国木田哲夫の戦時画報.02 | mizusumashi-tei みずすまし亭通信
戦時画報1732
戦時画報1729
 戦時画報34,35,37,38号(1905)近時画報社

「東洋画報→近時画報→(日露開戦により)戦時画報→(終戦により)近時画報」はわが国最初期の本格的なグラフ誌で、オーナーであった矢野龍渓(と国木田独歩)は海外の「グラフィックス」や「イラストレイテド・ロンドンニュース」の日本版を目指した。日露戦争時にはこうしたグラフ誌は百出したが、ライバル誌であった(われらが新潟県長岡市出身の大橋佐平が起こした博文館の)「日露戦争実記」などは読みもの中心で、写真は数点しか入っていなかった。

写真機は箱形で感材(フィルムにあたるもの)は乾板の時代で、機動性に乏しく現像設備も携行しなくてはならなかったから、現在のように写真満載の雑誌というのは不可能にちかかった。国木田独歩はその弱点を補うべく、小山正太郎を招聘すると彼の画塾不同舎の面々を戦地に送り、戦線でスケッチした下絵を写真様に描き直して掲載した。発行部数こそ当時の大手出版社博文館「日露戦争実記」に遅れをとったものの「戦時画報」は当時最大人気を誇った。

勢いに乗った独歩は〝海外版 戦時画報〟を模索し、出版の予告広告もだしたが実現しなかったらしい。出版されていたら泰斗であったろう(黒沼比佐子)。

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国木田独歩というと、反射的に「武蔵野」を連想してしまい、その内容から内省的で穏やかな性格の人なのかなと思うのだが、実際は豪放磊落でお酒が大好きな呑み助だった。晩年病気が重篤になった折りも愛人(しかも看護婦だったそうだから出来過ぎなのだが)に看護されていて、妻の治子はその愛人がでかけた合間に見舞っていたというから、なんだかよく判らない。ただ、憎めない人物だったらしく、あまり悪く書かれたものを読んだ記憶がない。

以前にもブログに書いたが「美しい武蔵野の自然林」という認識は、国木田独歩以前にはなかったとのことで、ロシア自然主義文学などの翻訳(そして独歩の「武蔵野」に)によって、私たち日本人が新たに感得できるようになった「新しい情緒」といえる。「新しい美」なるものは、新たに見つけだすまでは無いに等しいのはいうまでもない。「からまつの林を過ぎて/からまつをしみじみと見き。/からまつはさびしかりけり。/たびゆくはさびしかりけり。(落葉松:北原白秋)などという興趣は、独歩らが見いだすまでは感じることのできない感興であった。

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 黒岩比佐子:編集者国木田独歩の時代(2007)角川選書

以前読んだものの細かな内容はすっかり忘れてしまっていたので、久しぶりに図書館から借出して拾い読みした。ほんとうに丹念に調べてあって(関連資料は遺漏無く渉猟されているようすで)、本を一冊作るということはこういうことなんだと頭が下がります。