地方の歓楽街:長岡市殿町(02 | mizusumashi-tei みずすまし亭通信
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 長岡市殿町:2009年

長岡市の繁華街「殿町」は名前のごとく、江戸時代は越後長岡藩の居城堀外にあった殿さまの御寮に由来するが、長岡中心街は明治維新の戊辰戦争で焼かれ、太平洋戦争でも焼夷弾の投下で再び灰燼に帰した。戦後は大手通、現ショップイン大手のあたりに一般に「マーケット」と呼ばれた闇市風な小商いが雑居し、市民による自発的な活力から復興の兆しが見え始めた。この「マーケット」に数軒のスタンドバーが、歓楽街へと集積していく第一歩となったようだ。とりあえず酒で景気づけというところか。

最初、スナック・バーの店舗数は少なかったから喫茶組合に属していたが、追々数が増えて「洋酒バー組合」として独立して今日に至っている。そういえば、パープル・シャドーズ「小さなスナック(昭和43年)」がヒットしたころをピーク前半とすると、以降しばらくスナックはカラオケと結びつき全盛を迎え、やがてカラオケボックスが登場しだす昭和60年ころから、スナックは徐々に斜陽に向かったのではないだろうか。

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“キャバレー太郎”と異名をとった福富太郎が銀座大通りに「銀座ハリウッド」を開店したのは昭和39年、東京オリンピック開催の年でホステス数800人の大型キャバレーだった。福富は余勢を駆って昭和41年までに、首都圏に30軒ものハリウッドチェーンを展開、ホステス総数は常時3000人を超えた。このホステスの中には田中角栄の懐刀“越山会の女王”佐藤昭子、大韓航空爆破事件の犯人・金賢姫に日本語を教えたとされる李恩恵、時効寸前で逮捕された殺人犯の福田和子などもまぎれていた。

これを契機に全国に大衆キャバレーが増殖する。戦後20年を経た昭和42年はまさに“昭和元禄”の幕開け「GNPの成長率は予想をはるかに超え、サラリーマンは史上空前のボーナスを手にした。ゴルフ人口は全国で一万二千万人を数え、大流行のボウリング場も九千レーン以上に達した(広岡敬一:戦後性風俗体系/朝日出版社)もはや、日本の都市部が繁華街と化した様相と見るべきだろうか。私たちはこうして好景気という酒に酔っていくのである。