雑誌「女性」大正13年新年号の山六郎(06 | mizusumashi-tei みずすまし亭通信
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 雑誌 女性:大正13年新年特別号 プラトン社
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 雑誌 女性:大正13年新年特別号 目次

大正12年の関東大震災で東京の出版社は壊滅的な被害を受けたが、大阪に本社があったプラトン社はこれを好機に新雑誌「苦楽」を年末に創刊、東京に拠点を移す。新年号の目次のごとくそうそうたるライター陣で一時は出版界を制したかに思えたが、講談社が大正14年に廉価大冊の雑誌「キング」を発刊、創刊号を75万部を売り上げプラトン社を圧倒する。どちらかというとハイソサエティ高額本志向だったプラトン社は世界不況と、この廉価攻勢の前に追いつめられていく。

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 雑誌 女性:山六郎(左)と橘文二の見出しカット
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 雑誌 女性:大正13年新年特別号 山六郎挿絵

坪内逍遥の学校用歌劇「道灌と缺皿(かけざら)」挿絵を描いている。橘文二、前田貢らのサインもみえるが、いずれも山六郎のタッチを踏襲していて雑誌全体が統一されている。なお、大正13年新年には雑誌「苦楽」が創刊され、こちらは主に山名文夫が中心になってレイアウトを担当することになる。「苦楽」は“Life”の邦訳で、現在の視点からだと“苦”の重さが気になるところながら当時はモダンな書名だったそうだ。山六郎の後輩・山名文夫は後に資生堂に移って一代を成すが、その過程で(われらが長岡出身で東京五輪のポスターを手がける)亀倉雄作とであったりする。

大正末から昭和にかけてマスメディアは大量印刷の時代を迎えて急激に発展する。その中で編集、挿絵、デザインといった専業が確立されていくのですね。