お鯉さんの若衆姿と明治の建築 | mizusumashi-tei みずすまし亭通信
true-お鯉

こちらが、お鯉さんの若衆姿です。写真はもう少し凛々しいのですが、イラストにすると多少の誇張が必要です。誇張したらしたでちょっと描き手の下心が透けてきそうで、まぁ詰まらないところで躊躇煩もんがあるものです。当然白黒写真ですが、実際は茄子紺に黒の渋いいでたちです。丈長の法被に鯉の滝登りが染め抜いてありますから、あつらえものなのでしょう。江戸時代の吉原花魁や芸妓は、今でいう芸能界のトップスターで流行の発信地でした。

お鯉さんは明治13年の生まれ。14歳で東京新橋の芸妓になりました。江戸時代はやはり吉原芸者が一番格式が高く、深川芸者は辰巳芸者ともいわれて粋なプライドで知られていますが、もともと地味な着物を着たのも吉原に遠慮してのことらしいです。新橋芸者などは新興でしょうが、明治に入ってからは格式もなにもなくなっていったのでしょうね。それでも、明治は「修養の時代」と呼ばれるように、自己を滅して奉公するという気概がありました。

現在は「個」が単位で「家」という観念は限りなく薄くなりましたが、当時「家」というのは、いわば生存するための知恵が生み出したシステムだったのですね。現在、家庭崩壊といわれていますが、個人を単位に優先し家を維持していくシステムを放棄したのですから、崩壊は自明な結果ということでしょう。

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あれっ? 途中で脇道に。写真上が長岡市歴史博物館で明治44年建築の新潟市庁舎のデザインを取り入れて建てられたとあります。下がその向かいのレストラン内部で、こちらは昭和2年に建てられた旧第四銀行住吉支店を移築したものです。松井今朝子の小説に、洋風の和建築は冬になると石貼りの壁や床が冷えに冷えて堪え難いなどと描写されています。残された写真を見ると立派ですが、安手の造りのものは映画のセットのようだったのかも知れません。