第5章 はじめてのお引越しと名古屋弁の応酬 | 音楽をめぐる冒険(いかにして僕は音楽のとりことなったのか)

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昭和の時代の音楽を巡るいろいろな話をしましょう。

ミニカーを並べて
 

さて急に決まった名古屋行きでしたが行き先は母方の実家、つまり僕にとってはおじいちゃん、おばあちゃんの家でした。実のところ父の仕事がうまくいかなくなりどこに行こうとなった時に奥さんの実家にとりあえず居候になろうということにしたようでした。だから、実家を出て東京か横浜に住みたかった母にしてはおもしろくない話です。そして、家では好き放題していた僕でしたが、この引越しで人生が一変します。祖父が本当に明治の頑固の塊のような人で厳しかったのです。また不甲斐ない義理の息子を見てその息子、つまり孫を鍛え直さなければならないと使命感に燃えたのでしょう。だから、とことんしつけ直されました。祖父設計のそのうちは、祖母と2人で住むようにつくられていたので広くはなかったのですが、庭面積は360坪ほどあって木々がいっぱい植えられ池もあり山谷の自然な様子でひとりで遊ぶには飽きない場所でした。東京からゴーカートも持ってきたのですが、鉄の塊のその足こぎ式は平地ならいいのですが、赤土のダートの上では重くてほとんど漕ぐことができませんでした。それを犬のリードを持って引かせたりして遊んでいた。初めて出会ったペットは黒い犬でした。祖父が命名したその名は、マック・ロッケー 。要するに真っ黒けということです。残念ながらその犬は3歳でなくなりました。だからあんまり長くは一緒に遊べなかったなぁ。生き物は死ぬ時悲しいからとそのあとうちに別の犬が来ることはなかった。

引越し先は船橋とはまた違った意味でのんびりとした場所でした。畑はそこかしこにあるのですが、基本住宅地でしかも周りは二階建て一軒家当たり前の高級住宅地。いきなり引越してきて周りに同年代の子もいそうになかったので、もっぱら庭でひとりで遊んでいました。もともとその傾向はあったのですがよりどんどん内向的になっていろんな想像の世界を毎日作り上げて遊んでいました。しばらくしてまた幼稚園に行くのかなと思っていたら保育園に行くと言われました。子供心に何か都落ちしたような気がしました。まわりは変なイントネーションでしゃべるやつらでなじめなかったなぁ。関東の人間にとって全く逆に聞こえるイントネーションが嫌で嫌でしょうがなかった。だから毎日うまいこと誰かケンカをふっかけてきてくれないかなぁとばかり思っていた。売られたら思いっきり買ってやるのにとばかり。でもある日こんなんじゃいけないなぁと思ったのか、疲れたのか訳はわからないけど、唐突におどけてはしゃいでみせたら、びっくりするくらいみんなと打ち解けた。その瞬間は今でも覚えている。子供なりに悩みまくって自然と生まれた処世術かもしれない。そして違和感ありありの名古屋弁まがいのイントネーションをしゃべる毎日が始まった。ごめんのイントネーションは変だしピアノが信じられないイントネーションで発せられるのにはまいった。なんなんだろう。関西人でもピアノはピアノというのに… ピに思いっきりアクセントをつけて言うのだ。バツxはペケだし。でも子供の順応力はたいしたもので、何とかそれに慣れていきました。

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