○この人に嫌われてしまったかな?と感じた時は、自分がその人のことをちゃんと好きであったかを思い返す。
○最優先が「自分」である時は疲れている証拠。大いに自分を優先すべし。
「他人」を優先できる時は心に余裕のある証拠。大いに周囲を大事にすべし。
○人に厳しく自分に優しい時が往々にしてある。恥ずかしい。
○新幹線で隣になった女性が、お弁当を食べる前に小さく手を合わせて頂きますをしていたのが素敵で可愛かった。大事だと思う。頂きますは本当に。
○ポールスミスで1500円のハンカチを買った。
きっと何万円もする買い物をするのが普通である所だろうに、一つのハンカチをものすごく丁寧に包んでくれて、品のある紙袋にまで入れてくれて、お見送りまでしてくれて…涙が出そうになるほど嬉しかった。
こういうことだよな…大事なのは、こういうことだよな!!!
○景色の写真を撮って、色味とかを編集したりするのが好きなのだけれど、それって何ていうか「この景色を見て綺麗だなって思った自分の目にはもっと素敵に見えているのだよ!」というような感覚で編集してる。
○夏、歯が痛くて本当に泣きそうになった日があった。
共演者に相談したら痛み止めをくれた。
赤ちゃんやペットのように、痛いってことを周りに伝えられないって、どれだけ辛いんだろう。
○昔っから思ってたけど、iPhoneの「残り1%」からの底力がえげつない。
たぶんあれ、1%以上あると思う。
○「海外だから凄い」「あの劇団の人だから凄い」というような、「環境」に惑わされないこと。きちんと「その人のなにを凄いと思ったか」を大事にしないと、価値観がどんどんとチープになってくる。
○「やだな」「めんどくさいな」「かったるいな」
そう思う事は心の気分転換にもなる。
心の中くらい我慢しなくたって良い。
○言葉遣いはポリシーである。
○みんな日々色んなことを抱えて生きてんだよなあ!それでも街中では何事もないかのようにどこかへ向かったり、頑張って歩いてる。すごいよ。本当にみんな、すごい。
○謙虚に謙虚に。
満足は観客がするもの。
こちらはせめて「報われていれば」良い。
○共演者に稽古場で認めてもらえるか。
欲を言えば素敵と思ってもらえるかというのは本当に緊張する自分との戦い。
○割と明るい性格の方だと思っているけれど、自分よりさらに明るい人に出会うと自分は暗いのではないかと思ってしまったりする。光を比べてはいけない。
○事務所からの連絡をメールからLINEにしたら、「用件がリスト化されている」というメールの有難さに気づいて戻した。(ラインの場合はトークを遡らないと前の用件にまでたどり着けないから)
いまはラインの方が便利だとよくよく言われるけれど、逆の部分に改めて気付けて面白かった。
○上の話に付け足すと、小学生の頃に「逆学 (ぎゃくがく)」という作文を書いたことを思い出した。
もしも携帯の後に固定電話が出来たら、「持ち運ぶ」という事から解放されて意外と需要があるのではないか。
もしもエアコンの後に扇風機が出来たら、部屋が涼しくなるよりもまず自分が一瞬で涼しくなるので需要があるのではないか。etc...
○殺陣でもダンスでも芝居でも、「相手を感じる」って初歩の初歩だとよく言われる。でもなぁ…むしろ結構ベテランでないと出来ない域でもあるような気がするんだよなぁ…「相手を感じる」だなんて…
○「技術」だなんて事を考えずに演じたい。
心でお芝居をしていれば絶対に伝わると信じていたいのに、絶対にそうではない事はよく知っている。
ならば技術をよほど無意識化するしかない。習慣化するしかない。
語弊を恐れずに言えば、本番は最高の訓練である。
○技術という言葉が自分の肌に合わないのかな。
「美学」と思えば良いのかな。
○技術をきちんと考えてお芝居に望んでいる人は、技術を技術と思わせないところにまで到達してるから、自分も早く後を追いかけなければ。
○ストレートプレイやミュージカル、2.5次元舞台など様々なカテゴリーがあるにせよ、全てに共通して言えるのは「血の通った人間が演じるからこその良さ」へ取り組むことなのではないかと感じていて、自分の中ではそれを忘れないことが一つの「ブレない方法」でもあったりする。
○「(観客に)こうしたら伝わるかな…こうしなきゃわからないかな…」というのは、時に行きすぎると観客をバカにしてしまう事にすら繋がる恐れもあるため気をつけること。
なんにせよまずは、自分のやりたいことと根気強く向き合うこと。
その結果「おいこれ俺にしかわかんないよ」ということろまでいって初めて先述の考えに戻ること。
○「この言葉、使い飽きたなぁ」と感じたら、別の表現を一生懸命考えてみること。
自分から別の表現が出てきた時の「自分にもこんな引き出しがあったのか、出来たのか」という楽しさを忘れないこと。
○「一日」っていう単位があるのはありがたいことだよなぁ…ずーっと明るかったら、ずーっと頑張らなくちゃいけない気がしてくるもの。(白夜で1日中明るいというような国もあるけれどね)
○毎ステージ、同じことをやろうとするのがそも間違い。
違わないとおかしいのかもしれない。
「毎ステージ違って良い」ということを少し肯定的に考え始めてみよう。
○音圧だけで感情を表現しようとしすぎない。
もっと日常では誰もが自由自在に色んな音を使って会話をしているという事を忘れない。
○「台詞をこの音で出したい」という希望をまず捨ててみること。ストライクゾーンを自分で作らない。その代わり「想い」を強くする。そこをちゃんと考えて見つめ合って出た音の方がよっぽど有意義で良いものなのではないだろうか。「この音でないと観客に良いものを与えられない」という考え方を、ポンと捨てられる勇気が欲しい。
○観客は「なにに」感動するのだろうか。
○舞台上で中々「楽に」なれないとき。僕は一体何に力んでいるのだろうか。「良く見せたい」という願望か。「表現してるよ!」という過充分な提示か。いずれにせよ、力みを取ることがまず観客とつながる第一歩であったりするのに、なかなかなかなか難しい。
○よい気分のまま一日を終えたい時は、なるだけ携帯をすみやかに置いて、静かに目をつむり始めるべし。
○昔の自分と変わったなぁと思うことが増えてきた28歳。
それはきっと、以前までの自分の思想や物の考え方に一度「疲れた」部分もあるからだと感じる。
例えば、体が疲れ切ると休むという選択肢を取らざるを得ないように、心も、それまでの考え方に疲れ切ると自然と別の道を歩まざるを得なくなるのかもしれない。
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【以蔵さんや、あの方の生きた時代について、少し】
○腰に人を殺せるものを常に持ち歩いている時代だなんて、あまりにどうかしている。
○剣の腕が立ったというのは、最初はあくまで「木刀や竹刀」の話であって、彼に「真剣」を持たせ、実際に抜かせる事になってしまった「時代」が本当に憎い。
○人のいないところで、どれだけ一人で泣いただろう。
○人を殺めてしまったその日から、家族にどんな顔を向けて日々を過ごせばよいのか、町をどう歩いたら良いのか。
○以蔵さんが拷問された場所と、以蔵さんの実家は、川を挟んで真向かいにあった。ご家族のもとへは拷問を受ける以蔵さんの声が嫌でも聞こえてくる。それがたった150年近く前の事。本当に「最近」ともとれる時間。
○稽古期から千秋楽まで、色んな思考を経た。
わかりたい→資料をとにかく漁れば何かが掴めるだろう→どうしよう全然わからない→演じていれば何かが掴めるだろう→実感が無い→今僕は誰を演じているんだ?→勝手に遠いと思いすぎている部分があるのかもしれない。もう少しちゃんと「人間」であることを思い出そう→「想い」を体現しようとするのに余計な力が入りすぎ。必要以上の疲労→「わからない」ということを悪いことだと思うのを少しずつやめる。→わかった気になる方がよっぽど怖い。それよりもずっとウンウンと唸っている方がよっぽど性に合う。これは以蔵さんに関わらず他の役と向き合う際にも同じことがいえるし、なんなら日常の人間関係にも言えること→ずっと、以蔵さんが横にいてくれたらいいなぁと思いながらやってきたが、最終的に、これはイメージの話に他ならないけれど、以蔵さんの衣装を着た僕自身が横にいる感覚になった。
○「実在した方の人生をある種のエンターテインメントへと昇華する」という点において、自分の中で乗り越えなければならないことがうんとあったけれど、次第に、そればかりに囚われていては以蔵さんに「わしの名を借りたからには大成せい!」と言われてしまいそうな気がして、そこからは少しずつ前向きになれた。
○今の時代でいうところの、いわゆる知的障害的なところが多少あったのではないかという説もある。真偽はわかりかねるが、「行動の飛躍」をみると少しだけ「……ふむ」と思える時があった。
○演じるにあたり美化をしてはいけない。美化は時に冒涜にあたりかねない。
○史実の以蔵さんと同じくらい、末満さんの描きたい以蔵さんというのが大事。
○運動神経や容姿、声や気質も俳優の大切な武器であろう。
けれども今回痛感させられたのは「想像力」が本当に俳優の武器であるということ。
「想像を絶する時代を想像」しなければいけない。
想像する事と立ち向かった俳優のもとへはきちんと、一挙手一投足の細部へと神様が宿って観客のもとへと届く。
○刀を抜いたからには、振ったからには、気がふれていないと振り続けられないのかもしれない。
○あの時代、どこか「グループから外れる」というのはとても怖い事を意味するのではないかとも感じていて、何かしらのグループに属する事で自分自身や自分の思想を証明できて、そこから外れる、外されるというのはとても怖いことであったのではないかと。
○末満さんの脚本の面白い点が「観客だけでなく、演者にも考察の余地がふんだんにある」ところ。
○龍馬が陸奥守に「おんしの知る日の本は、ええ国か?」と聞くシーン。
あのシーンの何が凄いって、舞台上から見る景色がまさに「おんしの知る日の本」そのものであること。
遊びで高下駄を履けば上士に殴られ蹴られたような時代から、皆んなが思い思いの洋服を着てお芝居を楽しめる時代へ。
あのシーンに居させてもらえたことは、役者として物凄い「体験」だった。