2015・1「書楼弔堂 破曉」京極夏彦 | 町に出ず、書を読もう。

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物語がないと生きていけない。社会生活不適合者街道まっしぐら人間の自己満足読書日記です。

2015年

1冊目

「書楼弔堂 破曉」

京極夏彦

集英社


書楼弔堂 破暁/集英社
¥2,052
Amazon.co.jp

さて、あなたはどのような本をご所望ですか


明治二十年代の半ば。

雑木林と荒れ地ばかりの東京の外れにて、日々無為に過ごしていた高遠は異様な書舗(ほんや)と巡り合う。

店の名は、書楼弔堂(しょろうとむらいどう)。

古今東西の書物が集められたその店には、迷える者たちが「探書」に訪れる。

変わりゆく時代の相克の中で、本と人の繋がりを編み直す。

書店シリーズ、第一弾!


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




さあて。

感想文を2012年~、2014年~という二連奏で今後はやっていこう、

などと考えたのは、今をさかのぼること1年2ヶ月ほど前。

でもそれから書いたレビューなんぞ、片手で数えられる程度。

その間にも無情に時は流れ、

読んだ本も、積読も着々と増えていきました・・・



この調子でちみちみとレビューをこなしていっても、

今年読んだ本の感想はいつ書けることやら。



なので、2015年~のカテゴリも加え、三連奏することにしました。

もし2015年に読んだ分が読むほうに追いついたら、

また二連奏にするかんじでー。



って、どう考えても2016年を迎える方が早くなりそうですけどね。

(ノ_-。)



では感想。



とても書舗には見えない楼閣のような外観の弔堂。

中には、古今東西の膨大な書籍が収められている。

本好きには垂涎の光景なのだが、

店主はこの書籍の坩堝を「墓場」だという。



「人には誰しも、自分のためだけの1冊がある」

が、店主の持論。



その1冊を見つけるために集めた本は、

全てが「店主のための1冊」ではなかった。



だから、求める者の元に辿り着けていない本を、

こうして供養しているのだと。



そんな弔堂には、今日も迷える人が訪れる・・・

死屍累々の墓場に眠る、たった1冊の本を求めて。


「さて、あなたはどのような本をご所望ですか」



・・・という感じの連作短編です。




明治二十年代という絶妙な時代チョイスのおかげで、

幕末に活躍した人たちや、明治中後期に活躍する人物たちが、

続々と登場してそれが楽しみの一つでもあります。



ただ、読メやアマゾンのあらすじでは、

なぜか惜しげもなくその人物たちを表記してるんですよ。

誰だか考えながら読むのも楽しいというのに・・・



あんな人、こんな人、最後にはまさかのあの人まで。

考える楽しみをなくしたくなければ、

あらすじは見ないで読むことをおすすめします。



弔堂は基本的に仕入れた本を売っているのではなく、

店主が集めた本を販売しているので、いわば古本屋。



京極夏彦で古本屋と言えば、どうしても京極堂を思い出してしまいますが、

弔堂は、京極堂の「憑き物落とし」と逆のことをしてるのかな、と思います。



京極堂の「憑き物落とし」は、妄執に囚われ近視眼的になっている人を、

言葉という呪を掛けることで解き放つこと。



かたや、弔堂の行う「人と本との引き合わせ」は、

進むべき道や信じるべきものを見失った人に、

本という形あるものを提供し、

その本の内容、あるいは本という存在自体をもって

前に進んでいく指標を与えること。



「落す」ことと、言うなれば「降ろす」こと。

間違った道を「閉ざす」ことと、行くべき道を「開く」こと。

また、「神主」でもある京極堂と、還俗した元「僧侶」の弔堂。



そういう対比なんかを意識して読むのも面白いかもしれません。



あと、あらすじに「書店シリーズ第一弾!」と書かれているのですが、

このままの形で続きそうな感じではなかったのも気になるところ。



もし本当に続くのだとしたら、何かを変えてくるはず。

それが何なのか考えるのも、待つ楽しみのひとつです。