定年を迎えた春。
浩一は庭の柿の木を眺めていた。
若い頃に植えた一本だ。
毎年、少しずつ枝を伸ばし、秋には甘い実をつける。
だが今年は、片側の枝ばかりが大きく育っていた。
日当たりのせいだろう。
そう思って、浩一は枝を無理やり反対側へ引っ張ってみた。
少し力を入れると、枝はきしりと音を立てた。
慌てて手を離す。
「そんなに急に向きは変わらないわよ。」
後ろから妻が笑った。
浩一は苦笑いした。
昔からそうだった。
何かうまくいかないと、正しい方向へ戻そうとしてしまう。
仕事でもそうだった。
部下が迷えば、答えを教えた。
子どもが悩めば、正しい道を示そうとした。
妻とも、何度「それは違う」と言っただろう。
自分では相手のためだと思っていた。
けれど、気づけば誰も相談しなくなっていた。
数日後、近所の植木職人が庭へやって来た。
浩一は枝を見ながら聞いた。
「反対側へ曲げたいんですが。」
職人は枝を眺め、首を横に振った。
「無理ですね。」
そう言って、一本の細い縄を取り出した。
枝を引っ張るのではなく、少し離れた支柱へゆるく結ぶ。
ほんの少しだけ。
引っ張っているのかどうかも分からないほどだった。
「これでいいんですか?」
浩一は思わず聞いた。
「ええ。」
職人は枝を軽く撫でながら言った。
「向きを変えるんじゃありません。」
「向きを変えられる時間をつくるんです。」
浩一は、その言葉が少し分からなかった。
夏になった。
枝はまだ右を向いていた。
秋になっても、大きくは変わらない。
「やっぱり変わりませんね。」
浩一が言うと、職人は笑った。
「見てください。」
枝ではなかった。
枝の付け根だった。
少しずつ太くなり、木の中で新しい形が育っていた。
枝は引っ張られて曲がったのではない。
木自身が、新しい向きを受け入れられる形へ育っていた。
浩一はしばらく黙って眺めていた。
その夜。
夕食のあと、妻が何気なく言った。
「来月、娘たちが帰ってくるって。」
以前の浩一なら、
「だったら部屋を片付けないと。」
「何時に来るんだ。」
「泊まるのか。」
そんな言葉が先に出ていた。
けれど、その日は違った。
少し間を置いて、
「そうか。」
それだけ言った。
妻も、それ以上は何も言わない。
静かな時間が流れた。
窓の外では、柿の枝が風に揺れていた。
向きはまだ少し斜めだった。
それでも、以前より柔らかく揺れているように見えた。
人も同じなのかもしれない。
正しい方向へ引っ張られるから変わるのではない。
変われるだけの余白が、自分の中に育ったとき。
向きは、誰にも押されることなく、静かに変わり始める。
その日、浩一は庭へ出ると、枝を引っ張ることをやめた。
ただ幹に手を添え、しばらく風の音を聞いていた。
翌朝。
いつものように散歩へ出かける途中、近所の公民館の前を通ると、小さな看板が目に入った。
「ヨガ教室」
浩一は一度通り過ぎた。
少し歩いて立ち止まり、振り返る。
そして、小さく笑うと、公民館の扉へ向かって歩き始めた。
