梅雨の爲(た)め、庭の隅々(すみずみ)に、雜草(ざっそう)が生(は)え繁(しげ)つて鬱陶(うっとう)しいので、雨上りの朝早くを雜草抜きにかゝる。
尺餘(しゃくあまり)に延びた叢(くさむら)の中に、三寸位(さんずんくらい)の朝顔の苗が、見つかった。
これはべつだん、こゝへ蒔いたわけではない。
が、もうじき、眞夏(まなつ)も程近い、その頃までには、この苗が蔓(つる)を延ばして、板壁に這(は)ひ廣(ひろ)がり、朝々、凉しく美しい花を咲かせることであろう。その花の咲いた樣子が、今からなんとなく嬉しく腦裡(のうり)に、自然と描き出される。
それで、そつとその朝顔の苗の三、四本を、痛めぬよう注意して、周圍(しゅうい)に取りふさいだ雜草をきれいに除(のぞ)いて仕まつた。
そうするとふとこんなことが浮んで來た。
不用のものは棄(す)てられ、有用のものは殘(のこ)さると―
自分にとつて見れば、朝顔の苗は、特別の存在に見へ、外(ほか)のは雜草に見へる。雜草からいへば、同じ朝顔も平等の存在であろう。
だが、庭をふさぎ、人の心を鬱陶(うっとう)しくするより外(ほか)に何にもならぬ存在は、雜草と名づけられて、容赦(ようしゃ)なく棄(す)て去られる。
人間も亦(また)之(こ)れと異(ことな)る筈(はず)はない。
では棄て去り得ぬ人間として、此の世で一ばん貴い存在はなんであろう、と考へた。
それは「神の使者」であらねばならぬと思ふ。
社會にも數限(かずかぎ)りなく雜草的存在がある。
そして、此の世界的、いはば梅雨的情勢でそれが益々繁茂(はんも)しつゝある。
この時、誠に一本の朝顔が貴い。
社會に潤(うるお)ひを送り、喜びの幸音を傳(つた)へる、神の使者なる、一本の朝顔がほしい。
千萬億劫年(せんまんおくごうねん)の間に於(おい)て、人身を得た事は、誠に感銘事(かんめいじ)である。この生を、抜き棄てられる雜草とならぬことこそ、肝要(かんよう)であろう。
神の使徒(しと)となつてこそ、生の意義は初めて、認められよう。 遊 仙 述

