みなさん、こんにちわ!。今朝の人類の大救世主:現人神大塚寛一先生のみ教えのロニ如是我聞は下記でございます。「心の眼」で拝読されてくださいませ。大塚先生は1891年神国日本の四国阿波(あわ)にご降臨され、1972年に「神の座」にお戻りになられましたが、皆さまの心が神界に佇立される大塚寛一先生に通じますれば、素晴らしい幸福がもたらされると確信しております。下記は如是我聞ですが、大塚先生の教えの多くの原文は国会図書館へいきますと「鶏鳴新聞」(1984-1993)「神霊時報」(1984-2014)という2つの新聞で過去数十年の多くの教え原文を閲覧することができますことも申し添えさせていただきます。


神軍リクルーターロニサランガヤ
 

世の中は時の流れによって変化してゆく。したがって、人類の大転換期に際し、過去の 〝夜の時代〟 の生き方をいつまでも踏み行っている今日の全人類は、全面にわたり混乱を起こし、収拾がつかなくなっている。


その間隙をつき、根を張っているのが共産主義であり、また、最近の日本に急速に現れてきた韓国の文鮮明という人の教え(勝共連合)である。


米が芽を出す頃になると、似て非なる稗(ひえ)とか粟(あわ)などの芽がたくさん出る。それと同様に、「真の救世主が出る時には、我は神なりという偽(にせ)キリストが次々と現れて、人々を惑わす」とキリストは予言している。


今その予言どおりの現象が韓国に現れているのだ。本来なら、本物であるか偽物であるかぐらいの見分けは、普通の人でも一見して分かるはずである。ところが、欧米の物質科学万能文化の教育を学んだ現代人は、肉眼でものを判断するから、それが分からない。肉眼というものは、紙一枚隔てれば向こうが見えず、皮一枚下の自分の病気さえも分からないような、非常に貧弱なものである。その浅薄な肉眼に頼って事をするから、人類は政治・経済・教育・医学・その他あらゆる面にわたって、食い違いと混乱を重ねているのだ。


しかもその混乱現象は、本来は人を真に救済すべき使命をもっているはずの宗教面にも現れている。特にそれは、欧州の方の宗教に露骨に現れている。


現在、中近東でイスラエルとアラブ諸国とが戦いを起こしているが、あれは宗教戦争である。イスラエルのユダヤ教とアラブのマホメット教とは、二千年も前から対立し、今日それが戦争という形になって現れているのだ。


過去、イギリス・フランス・ドイツ・イタリア等々と、ほとんどの欧州諸国は、キリスト教の旧教と新教の戦い、すなわち宗教戦争に巻き込まれている。しかもイギリス辺りでは、今日にしてもなおその戦いが尾を引いている。


そもそも宗教の使命は、本当に人を救い、幸せに導いてゆくところにある。


ところが、欧米のキリスト教信者などは、表面上は大変立派な紳士のように見えるが、一歩奥の内部に踏み込んでみると、その過去の歴史が示すように、利己主義この上ない考えに陥ってしまっている。したがってキリスト教徒には、夫婦の財布が別々であったり、親子が別居するというようなことが、概して多く行われている。一見して親切そうで文化人のように見えるけれども、内心が伴っていない人が多いのだ。だから、幾度となく新教と旧教との間で宗教戦争が行われ、しかも日本では見られない凄惨(せいさん)な争い方をしている。


これらキリスト教・ユダヤ教・マホメット教などと比べると、東洋の仏教などの宗教はさほど暴れていない。日本ではたかだか比叡山の僧兵が帝(みかど)の住居する御所の前などに御輿(みこし)を置いて、いやがらせをするくらいで、大きな戦争などはしていない。


ところが、多くの宗教の中で、争いを起こしていない宗教が一つだけある。それは、日本の神道である。日本の神道は仏教・キリスト教・マホメット教等のような、対立摩擦や争い事などは一つも起こしていない。


明け方の太平洋上から煌々(こうこう)と日が昇る情景を背にして、若松のそばに鶴が舞い、おきなが三番叟(さんばそう)を踊っている〟極楽境の絵で示されるように、日本神道の本質は明るい 〝陽の宗教〟 である。故に日本の神道は、どんなものでも受け入れてしまう包容力を持っている。





その証拠に、日本に仏教が入って来ても、またキリスト教が入って来ても、日本神道はそれらの宗教を排斥していない。だから、それらの各宗教は日本に根をおろし、今日では活発に働いているのである。日本の国はアジア大陸の東端にあって、ちょうど吹きだまりのような位置にあるから、今までにいろいろの人種が入って来ている。そしてしばらくすると日本神道の感化を受けて、皆同化し、仲良く暮らしてゆくようになる。


ところが他の国では、なかなか日本のようにはいかない。なぜなら日本神道以外のすべての宗教は〝陰の宗教〟 であるから、正しい軌道に人々を導くことができないのである。


 皆は気づいていないが、日本神道に伝わる 〝三種の神器〟 の中には偉大なる哲理が含まれている。その秘められた原理法則をはっきり極めて、その法則を日常生活の中に当てはめてゆく時、日本中の医者はおろか世界中のお医者さんを集めても真似(まね)られない、偉大な力を発揮することができるのだ。

 


また戦争などにしても、戦わずして勝てる道を見い出すことができ、学ばずして天地間のことが分かるようになる。


  つまり、三種の神器の中に封じ込められてある原理は、今日の科学者がどれほど多く集まっても解釈できない、深遠なものなのである。


東洋哲学の中で一番深いところまで進んでいると思われる老子は、「一、二を生じ、二、三を生じ、三、万物を生ず」と言っている。確かに、「三、万物を生ず」ということは間違っていないが、一ということ自体の解決がついていない。


本来、一というものはない。数学では一が単位になっているが、その一の真実の姿は、「対(つい)」をなしている。一の中には内外・上下・左右・遠近と、無限の要素が含まれているのである。


では 〝日本の国に伝わる三種の神器〟 では、どのように説かれているかを説明しよう。


 三種の神器の中の「八咫(やた)の鏡」は一切万有が生ずる以前、躍動する以前の姿、すなわち〝あるがままの空〟 を現している。その中には、物心にわたる一切のものが皆、包含されている。


そして、もしその中に一物でも生ずれば、空すなわち鏡の姿ではなくなり、同時に内外・上下・左右・遠近というものができ、万物が生じてくる。


最初に一ができると、それは同時に、表面上の 〝物〟 と裏面の 〝力〟 が生じたことになる。すなわち、物ができるということは、同時に、力が裏面に潜在しているのであって、力なくして物は生じない。


 その力を表しているのが三種の神器では「剣」であり、物を表しているのが「玉」である。「鏡」の姿・空の中に、どんな小さなものでも一つ生じたなら、それは〝空〟 ではなく 〝有〟 に変わるのである。


 それで、三種の神器の中に表されてい「鏡・剣・玉」と合わせてゆけば、そこに万有を生み出している根源、法則が現れてくるのである。

だからその究極の鏡の姿、すなわち、あるがままの空・零(ゼロ)を理解し納得できて初めて、科学の究極が掴(つか)めたことになる。その〝零〟 が分からない間は、科学者といえども真の科学者とはいわれない。今日の人類社会ではあらゆる面で差別的になっていて、対立を生じ、争いが絶えないでいる。ところが零(ゼロ)点に達し、その鏡の姿から再出発した指導原理に従って進んでゆけば、一切のものは同一同根から生じているのだから、おのずから、

〝共存共栄の道〟 が開かれてくる。その零点から出発する軌道から外れると、人は病になったり、事故災難を起こすのである。すなわち、その中心軌道から一歩でも離れた時に、対立的状態が生じ、それが原因で災いが現れてくるのである。故に、その不自然な状態を零点の中に引き戻してやると、同時に本源の姿にかえり災いは消滅してしまう。


そもそもどんなものでも、究極へゆけば 〝零〟 になる。零になるには三つの原則がある。すなわち高熱を加えてゆけば零になり、高速度をもってしても零になり、また高圧を用いても零になる。この三つのうち、どれか一つ用いてゆけば、森羅万象一切のものが、みな零になってしまう。


 鉄とか岩などは固形物であるが、岩のようなものでも高熱にふれると溶岩となって液体になる。鉄でも溶鉱炉の中に入れると液体となる。そして、さらに強く熱を加えると、気体となって蒸発してしまう。


このことを最も分かりやすく表しているのが、水である。


水は冷えれば氷となり固体になる。そして氷に熱を加えれば流動体に戻り、もう一つ加熱すれば水蒸気となって気化してしまう。さらに、もう一つ強い熱を加えると〝零〟 になってしまうのである。このようにどんなものでも強い熱を加えていくと気化し、さらに加熱すれば、零になってしまう。零にならないものは一つもない。


その 〝零〟 すなわち、〝ものの本質・有無一如の空〟 を表しているのが、「日本神道の中に受け継がれて来ている三種の神器」の中の「八咫の鏡」なのである。この天地宇宙に絶え間なく活動している運動が止まると、同時に、宇宙一切のものは、〝あるがままの空・八咫の鏡〟の姿になる。その究極の状態から出発してゆくと、なんでも本然の姿に戻り、自他一如の境地となる。故に、万有を生む神本源の偉大なその力にふれてゆくと、どんな人でも、〝発生一歩前の本然の姿〟に戻れるのである。その本源の力がわしの説く真の日本神道では働いている。だからわしに帰依した者は、過去から積み重ねて来た悪因縁罪障が消滅して、一切の難病が治り、事故災難を免れて運命も好転し〝霊〟まで救われているのである。