現代日本は、世界一のスパイ天国とも言われます。

 となると、当然ながら世界の名だたる組織、すなわちモサド、CIA、MI6、ロシア情報庁、韓国情報部、また一方で、霊的洗脳をミッションとする有名団体、すなわちフリーメイソンリー、イルミナティ、梅園(メーファー)などの関係者も、その活動を逞しくされている訳で、情報収集だけではなく、政治目的で諸々の情報を拡散し、日本の政治家や民衆を宣撫したり、"教育教化"したりする工作も活発なことでしょう。

 


 そうした中、気になるのが、日本への原爆投下に関する情報です。

 戦後の一般常識では、大東亜戦争の終結に関しては、昭和20年8月6日、9日と、広島•長崎に米軍爆撃機B-29のエノラ•ゲイ号、ボックスカー号により高度9,000m以上から其々投下されたウラン型、プルトニウム型の原子爆弾が地上500〜600mで炸裂し大被害をもたらしたとされ、これが、8月9〜10日および14日に開かれた御前会議における終戦の御聖断、および翌15日正午に日本全国へ流された玉音放送への直接的要因になったものとされます。


 しかし、最近あちこちで囁かれている別説として、広島•長崎の原爆は日本軍が地上爆発させたものだったという話があります。

 いわく、ウランやプルトニウムの核分裂連鎖反応は、中性子を照射することでもたらされるが、空から自然に降り注ぐ宇宙線に含まれる中性子が原子爆弾を早期爆発させてしまう危険性があるため、その移動には中性子を遮断する分厚いコンクリート壁か大量の水が必要。


 そうすると、総重量が大変な重さとなり、B-29への搭載は不可能で、船で運ぶ以外の方法はなかった。また、原爆炸裂の瞬間に火球が大変な勢いで上に上昇するのを目撃したという証言もある。また、広島の爆心地、元安川には上空500mの爆発では得られないような爆破跡のクレーターが残っている云々•••。


 当時、日本はすでにウランの導入、および原爆の製造に成功しており、従って、それを日本軍が極秘に操作して地上爆発させた。あのB-29による原爆投下のストーリーは、日本のトップと米軍トップが内密に談合して、日本国民はじめ世界の民衆にもそう信じ込ませた創作。となると、昭和天皇が関与して全てやらせたのでは••••••?

 

 昭和天皇は、天皇家の莫大な資産をスイスの銀行に隠し持っており、終戦時に連合国に命乞いをして自らの命を助けられた。その際に、日本国民を見殺しにして自国の軍隊による極秘の原爆地上爆発作戦を黙認した。また、この原爆生体実験の事後データを長年にわたり東京大学の研究チームに調査させ、データを欲しがっている米国に提出した。戦後は、戦争責任を果たすこともなく、隠し資産で悠々と国民の上にあぐらをかき続けてきた•••。


 このような説が最近は結構拡散しているようで、やはり、明治以来の天皇家はすり替えられた偽天皇、朝鮮系の李一族であり、日本国民を永年にわたり搾取してきたDSカバールの裏のトップ。

 皇后が名誉総裁を務める日本赤十字は、国民が無償で献血した血液を民間製薬会社等に売り飛ばし、アドレノクロムも製造させていた大悪党でないのか•••?


 さて、こうした諸説が流布されると、日本国民は一体どう感じるでしょうか?

 当然のこと、天皇陛下や天皇家への敬愛の念は失われ、天皇制の終息や転換に期待するようにさえなるでしょう。

 しかしながら、こうした説は、最初に挙げた諸々の組織や団体等により捏造されたり、発明され拡散された疑いは果たしてないのか?

 "南京大虐殺"というデッチ上げが、利害を共有する米中のDS裏組織によって捏造されたように、スメラ御国における、天津日嗣と国民の紐帯を破壊することを政治目的として狡猾に働く団体の関与はないのか?


 仮に上記のような諸説を100%信じ込み、一つの信念とまでなった暁には、日本赤軍ではないが、命懸けで日本の共産革命なり社会主義革命なりを志し、天皇家の打倒と廃絶を叫ぶ人々が出てきて決しておかしくないでしょう。

 こうした日本国内の分裂を呼び込むことで、利益を得るのは一体誰なのか?

 "情報"ひとつのマッチポンプ作戦で、国内の深刻な政治闘争、果ては殺し合いの騒乱までもたらす裏では、日本を抱き込んだ世界統一戦略の駒を着々と進める"黒幕"というものの存在があるのか•••?


 では次に、これを検証してみたい。

新型爆弾(原爆)の製造競争に世界の列強各国が血眼となっていた昭和10年代後半、日本が原料であるウランの導入に極秘裏に成功していたのは確たる事実です。

 なぜ、そう確言できるのか。


 我々、日ノ本復興協議会の相談役を務められ、「天皇の真実を知る会」の代表として1970年代から約50年間にわたり、天皇の真実の姿、および戦後日本の目覚ましい復興の影にあった昭和天皇のお働きについて、世に訴える活動を実践され、この9月17日に80歳でご帰天された広島出身の河内正臣様という方がおられ、我々も大変お世話になった経緯があります。


 この河内正臣氏は、日本最古の社といわれ近年、五色神祭でも知られる阿蘇の幣立神宮とご縁が深く、皇道大本の出口王仁三郎師とも霊的な深い関連があって、自らは日月神示の御神行に生涯を掛けられた方でした。

 その河内氏は、同郷の広島出身で、戦前戦中に海軍嘱託の諜報組織であった岩田機関の長を務められた岩田幸雄会長と昵懇でしたが、平成元年の9月11日に、急遽岩田氏の自宅まで呼び出されて聞かされた話がありました。


 それは、同月6日の中国新聞朝刊で、第二次大戦中に盗まれたウラン入りの箱を米大使館に売り込もうとした犯人が逮捕されたという記事をたまたま目にした岩田氏が、45年前すなわち昭和19年に、この日本で実際に起きた事件でありながら、諸々の理由から墓場まで持って行こうとしていた重大な機密を、河内氏にだけ打ち明ける気持ちになったことに始まります。

 

 昭和19年といえば、日本の敗色が濃厚となり、国民には知らされなかったが、軍部中枢では、日本の前途に深い憂いを持ち、起死回生策に懸命な努力を続け、10月20日には背水の陣で神風特別攻撃隊の作戦も開始された時分です。

 そうした苦しい戦況下、日本軍もまた新型爆弾(原爆)の開発計画を密かに遂行していたが、難問は希少な鉱物資源であるウランを集めることでした。

 当時、日本領だった朝鮮半島まで探索を進めたが発見できず、結局、三国同盟を結んでいたドイツから原料を譲り受け、潜水艦で運ぶという極秘の軍事作戦が遂行され、昭和18年暮れから19年年初の間には広島呉の軍港に1トンのウラン鉱石が搬入され、日本における量子力学の父、仁科芳雄博士を中心とする理科学研究所と京都大学がその開発を進めました。


 19年2月には、当時、原子物理学の研究では世界トップレベルにあった仁科博士の研究チームによって原爆開発の目処が立ち、東條英機首相はこの特別軍事作戦を昭和天皇に上奏、しかし、これが天皇により却下されたのです。

 以下は、それから1年経った昭和20年2月ごろ、当時の経緯の全てを知る杉山元陸軍大臣が、ウラン導入と原爆製造に関わるソ連製作極秘フィルムの入手にまで尽力されていた岩田機関の岩田幸雄氏を世田谷の自宅まで招いたうえ伝えていた驚天動地の重大内容です。


 杉山「岩田君、君は軍籍のない民間人であるにも拘らず、日本軍のために身を挺して大変な貢献をしてくれ心から感謝している。その苦労に報いるためにも、一日も早く新兵器(原爆)を開発し、劣勢を挽回すべく懸命の努力をしていたが、事情があって残念だが新兵器製造は中止した。実は、御上(天皇)から強いお叱りを受けた。君の提出してくれた秘録映画から各国が新兵器開発に血眼になっている様がよく判り、私としては猶予は赦されず、製造を急がせていた。完成すれば、最初にハワイに落とし、その威力を示し、日本軍を有利に導く計画であった。我が日本軍がウランを入手し、新兵器開発が今まさに現実的になった段階で、東條首相がその旨陛下に上奏した。戦局は困難な状況下にあり、起死回生の決定打として、御上にお喜び頂けるものと思って申し上げたのだが、意外にも反対された。その理由として、『数ヵ国が新兵器開発を競っているとのことだが、日本が最初に完成し使用すれば、他国も全力を傾注し完成させ使ってくるようになるであろうから、全人類を滅亡させることになる。それでは人類絶滅の悪の宗家に日本がなるではないか。また、ハワイに投下する計画とのことだが、ハワイには日本の同胞が多数移住し、現地民と共に苦労し今日を築き上げた所である。そのような場所に新兵器を使用することには賛成しかねる』と申された。東條首相は、陛下のご意志に反することは出来ないということであったが、自分としては、敗戦となれば日本が滅びてしまい元も子もなくなると考え、製造促進を主張し意見が衝突した。参謀総長の立場にある者として、日本を敗戦に導くことは出来ない。戦争とは、結果において勝利を得ることが肝要であり、今の日本は手段を云々できる時ではない。勝てば陛下にお喜び頂けるに違いない。そうして陛下の希求される世界平和を実現できるではないか•••、と説得したが同意が得られず、私は昭和19年2月、参謀総長の座を東條に譲り野に下った。そして同年7月、東條内閣が総辞職する事態となり、小磯内閣が誕生した。自分は陸軍大臣に返り咲くことが出来たので、私の責任において、秘密裡に新兵器開発を急がせていた。ところが、新兵器を積むロケットの燃料製造過程で誤爆事故が突発し、再び陛下の知れるところとなった。陛下に呼ばれた私は、『まだやっていたのか!』と強くお諌めされた。誠に面目ないことであり、これ以上進めることは出来なくなった。私は日本が勝っても負けても自決し、この責任はとる覚悟である。たとえ勝てたとしても、陛下の大御心を煩わせたことは罪万死に値する。さらに多くの部下を死に至らしめた責任から逃れることは出来ない。ここで述べたことは、誰にも話さないでくれたまえ。もし知られたら、陛下も自分も全国民から恨まれるだろう。この事を知っている者は、陛下と東條と自分以外にはない。」


 この内容を、河内氏は、自身の48歳の誕生日でもあった平成元年9月11日、岩田氏から聞かされました。

 河内氏は、20代で思うところあって、奉職していた警視庁の有名な"鬼"の第四機動隊を自主退職された後、東京-広島間を3ヶ月かけて世界平和を祈りながら"平和大行進"を実行されたり、「天皇の真実」という著作を上梓し、歴代総理や共産党や社会党の党首達にも、戦後の平和憲法の発案の原点におられたのが、実はGHQではなく天皇であった旨を、訴え続ける活動をしてこられた経緯がありました。


 その活動を陰で支援されていたこともあり、晩年の岩田氏はこの機密事項を河内氏にだけは打ち明ける気持ちになられたものと思われます。

 一方の河内氏は、戦後の日本は、天皇のお陰をもって奇跡的な復興を遂げたが、秋至ったなら世界に対して平和の貢献により、核を廃絶し恒久平和を確立させなければならない使命国だと訴え続けてきました。そして、上記の秘匿されてきた実話こそ、それを決定的に証するものに他ならないと深く感銘を受けられ、平成2年11月12日、すなわち平成の天皇即位礼大典の日には、この実話の内容が「天皇と平和」と題する限定本となって、当時、在日の全大使館に贈呈される運びとなりました。


 河内氏いわく「敗色が濃くなっていた当時の日本で、陛下もそのことは日に日に感じておられたはずで、そんな時期に新兵器(原爆)の開発に反対されていたという事実は、驚嘆すべき重大事といわねばならない。有名なアインシュタイン博士は、戦後、世界連邦運動を通じて核爆弾の反対運動を熱心に推進した平和主義者として知られるが、その同博士ですら、戦中ドイツが原爆開発に着手しているとの情報を耳にした時、アメリカの科学者を代表して、ルーズベルト大統領に、米国がドイツより先に原爆を完成すべき旨、進言していた。当時、一般の間では、新兵器の噂を知っていた者は、最初に完成させた国が世界を制覇できると考え、誰一人として反対する者はなく、特に交戦国でこの事を知る全ての人は、一日も早い新兵器の完成を願っていた時代に、昭和天皇はハッキリと反対され、実際にその製造を中止させていたとは•••何という感嘆すべきことか! 自らが阻止した原爆は間もなくアメリカで完成し、史上初めて広島と長崎に投下されることになったが、この事実を知らされた時、陛下のご胸中は如何ばかりであられたか? 終戦の詔書に「敵は新たに残虐なる爆弾を使用して頻りに無辜を殺傷し惨害の及ぶところ真に測るべからざるに至る」と記されているところからも、そのご心中は察せられる。また、陛下は日本の戦争終結を"敗戦"とは呼ばず、"終戦"と断定されたことにも、原爆が製造された以上、この第二次世界大戦を、人類の最終戦争とせねばならないと深く思慮されたゆえに違いない。そこにこそ、昭和天皇が世界史上最初の"戦争放棄"を誓った日本国憲法を誕生せしめた必然の所以があった。この驚愕の事実は、天皇反対を叫ぶ人達の"反天皇"の論拠を完全に崩すことになるであろう。」


 未だ今日、日本人の全てに知られてはいない内容ながらも、これらの情報が公開された平成2年以来、世界各国の大使館や情報機関は、この内容を既にキャッチしていたことは厳然たる事実です。

 それを知った上で、天皇と日本国民の霊的な絆を断ち切ろうとする思惑があったならば、日本軍による地上爆発などという全く論拠のないトンデモ説も生み出されておかしくはないでしょう。

 それは、当時、日本が世界に先駆けて原爆完成に既に王手をかけており、あくまで力で勝とうとするなら、米国より早く原爆を使用して反撃に打って出ることも出来たに拘らず、天皇の唯一声によって、日本は自らが甚大な被害を受けることを覚悟のうえ、敢えてそれを放棄する道義国家の道を選択したという真相を逆手にとって、国民に真逆な自虐史観を植え付ける戦略であった可能性を疑う必要がありましょう。


 先の杉山元陸軍大臣の言葉に一部の嘘もなかった証拠に、同大将は岩田氏に述べた言葉の通り、終戦後の9月12日に拳銃自決されました。

 その遺書は"御詫言上書"と題され、次のような言葉で結ばれていました。「謹みて大罪を御詫び申し上ぐるの微誠を捧ぐると共に、御竜体の愈々御康寧と皇国再興の日の速やかならんことを御祈り申し上ぐ。恐惶謹言」

 昭和20年4月、杉山元の後を受け継いで陸軍大臣の任につき、8月14日の御前会議で最後まで聖戦の継続を訴えたのは、阿南惟幾でした。

 この阿南大将もまた、終戦の15日早朝に割腹を遂げました。その遺書は次のようなものでした。「一死もって大罪を謝し奉る 神州不滅を確信しつつ」、辞世「大君の 深き恵みに 浴みし身は 言い遺こすべき 片言もなし」


 これらの誠の武人たちが、何が悲しくて自国民を犠牲とする原爆を地上爆発させるのか•••?

 笑止千万の珍説、とはこの事でしょう。


 天皇の資産については、戦後、政府予算の収支に計上されない天皇名義の簿外予算が存在し、それが戦後復興の隠された仕組みでもあったのは知る人ぞ知る事実ですが、資産を海外の銀行に隠して命乞いしたというのも全く真逆な話です。

 というのも、昭和天皇は終戦直後の9月27日に取りもたれたマッカーサーとの初会見では、自ら敵将の前に出向かれたうえ、自分の命はマ元帥にお預けするが、住居と食糧に窮している日本国民を助けてほしい、そのために皇室の全財産を差し出すことも厭わない旨、申し出られており、命乞いに来るものと考えていたマ元帥を深く感服せしめており、以後、マ元帥は昭和天皇には大変気を遣って接するようになります。

 国民を見殺しどころか、自らの命を敵の前に差し出して、国民を救おうとされたのが昭和天皇の実の姿であられ、それにより戦後の日本国民は実際に救われているのです。


 最後に、戦争責任問題についてですが、開戦に最後まで反対されながら、当時の軍部や世論の動勢から大東亜戦争の端緒を切る詔書に署名せざるを得ない立場に立たされた昭和天皇に、実質的な戦争責任がなかったことは、東京裁判のウェッブ裁判長の次の言葉からも明白です「天皇が法的にも政治的にも、いわゆる戦争犯罪人としての責任者でないことは明らかである。」  次はマ元帥の言葉-「天皇を戦争犯罪人とみなすに足る特別かつ確実な証拠は何も発見できなかった」•••。


 "大元帥"に祭り上げられ、自らが望まなかった戦争に突入する他なかった天皇でありましたが、終戦の際には、御前会議でも意見が割れてまとまらない中、その全責任を受ける覚悟で自ら御聖断を下され、それ以上の国民の犠牲を喰い止められました。

 そして戦後の昭和21年2月から同29年まで、9年近くにわたって行われた昭和天皇の御行幸は、戦争に打ちひしがれた国民を励まし戦後復興を促進する目的で、御自ら発願され、特別の護衛も付けず、沖縄以外の全46都道府県を回られたものであり、これにより、現実に国民は元気付けられ、日本の復興は誰も予測できなかったほど早まり、世界から"奇跡の戦後復興"と呼ばれるようになります。


 こうした実際の足跡により、戦争の道義的な責任についても、昭和天皇は充分に果たされて逝かれたものと考えられ、むしろ、先の大戦にまつわる道義的責任は、戦後今に至るまで恒久平和達成への悲願を成し遂げる勅命を政策に反映し具体化することも出来ないまま、右往左往してきた政治家達を初めとする国民サイドに重く残され続けているものと考えられます。


 最近では、アメリカ某大学の"ラスト•サムライ"と称される日本人教授が、日本国憲法および第9条が押し付け100%メイド•インUSAだった証拠と称して、誤認の多い本や講演が大々的に喧伝されたりしているようですが、その経費はどの組織から出ているものか? その理屈は、一見"武士道"を説いているようであり、日本の軍備増大を望み、戦争を辞さない政治グループや経済団体には好都合かも知れないが、それが、果たして"スメラギの大道"に叶う真の武士道と言えるのか、あるいは武士道モドキなのか、慎重な吟味が必要でしょう。

 少なくとも、古来の"スメラギの大道"とは、"戦わずして勝つ"天の理法であり、昭和天皇は正しくそれを身をもって体現されたものと理解されるのです。


 明治天皇のすり替え問題も、最近はよく話題になりますが、明治維新自体が単なる欧米フリーメイソンの陰謀に留まる問題ではなく、南北朝時代の両統迭立が破られ、北朝のみが立てられるようになった室町幕府以降の武家政治への反発、特に西軍として関ヶ原で戦って破れた薩長にとっては、積年の恨みを晴らす千載一遇の機会となったのが維新であったのは、紛れもないな事実で、その際に南朝の血筋の玉が立てられ天皇に据えられたとしても、それなりの大義名分があります。


 天皇のすり替え問題を言うなら、後継のなかった第25代武烈天皇から継体朝に代わった時、あるいはまた、ウガヤフキアエズ朝から神倭朝の初代神武天皇に変わった時など、血筋の入れ替えが起こった可能性は過去にもあり、しかし、血筋は遠くても、"万世一系"といわれた天津日嗣の霊統は、肇国以来、連綿と守られ続けてきたところに、世界万国どの国にも超絶した君民一体、君民共治としての日本國體-"スメラ御国"の存在意義があるものと考えられます。

 最近のアドレノクロム等の問題は分かりませんが、少なくとも昭和時代までの天皇-スメラの仕組みとは、かくなるものでありました。


 世は今や、株式会社ニッポンの終焉と、新たな"ヤマト共和国"の発足が云々される御時世。

 "共和国"とは、専制君主を持たない政体であり、天皇制とは一見相容れないものです。

 しかしながら、明治以来の立憲君主制や終戦後の"象徴天皇制"自体が、本来共和制と全く親和性のないものだったのではなく、少しずつ共和制的な方向へ歩み寄ってきたのが歴史の流れであり、むしろ、この度の"ヤマト共和国"への移行を機に、天皇制へのぶら下り体質、悪くすると体制を利用した"君側の奸"とも成り兼ねない政治体質の悪弊を刷新し、"天皇の真実"を見直すべきが、喫緊の国民的課題とも言えるのではないかと思われます。

 この課題がクリアされた暁にこそ、本来のスメラミコトの天地の御祀りが反映された"ヤマト共和国"、そして万民に待ち望まれた"新地球共和国"が、名実ともにスタートするのかも知れません。