皆さんこんにちは🎵ロニサランガヤでございす❗今日の人類大救世主大塚寛一先生の教え「ロニ如是我聞」は、下記でございます!8月11日は、近い将来、世界のメッカとなる東京奥多摩聖地萬寿山にて、先祖霊供養の式典がございます‼️

  



 

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8月は、盆の時期であるが、世界何十億の人間が、エスカレーターに乗っているように、時々刻々とその関門に近寄って、100年せぬうちにこの地上から次の世界に送られるのである。そして、気の毒なことにほとんどの人が、病や事故災難で弊死し、途中の網の目のようになった選別する穴から、次々と地獄に坂落としに墜落しているのである。しかしながら、このように、地獄に落ちた御霊もわしの力で救われる「天の時」が、到来したのである!

 

 さて、禅宗の開祖である加賀の永平寺を開いた道元禅師は、“正法眼蔵”という随分難解な宗教哲学を創り上げているが、鈴木大拙氏と同様に理論の段階に終わってしまって現実が伴っていない。その証拠として、今から約700年前に、あの山中で病気になり、土用の一番暑い最中の旧暦の6月24日、今のように自動車も飛行機もない時代に京都まで名医を訪ねて行き、そして20日目に死んでいる。しかし、本当に深い哲理を体得しておれば、まず自己をはっきりと自覚しなければならない。そして遠大な理想と共に、自分自身を修められるはずである。そして、その余力をもって他の多くの人を救わなければならない。故に如何なる高遠な哲理でも、現実と遊離しているものを信ずることは非常に気の毒な結果に終わってしまうものである。しかし、このことは先人が悪いのではなく、“時”が到来していなかったからである。過去の名僧高僧たちは、高い霊眼すなわち心の望遠鏡によって、色々と教理を書き残してくれている。故に大変結構なことではあるが、しかしそれらによって人が真に救われるものではない。これら先覚者の永年の努力によっても実現できなかった病苦の解放から大安楽往生の理想が、時の到来した今日は、皆さんが身をもって体験できるのである。故に、この際一日も早く正しい神の摂理にそった生き方に目覚めて、真の幸福をつかむことが肝要である。もしこのまま皆さんが目覚めなかったなら、早晩必ずや皆さんのうちの何人かは、ガンなどの病に患り、手術台にのせられて切開され、胃や腸や食道などを切り取られて、内臓面の片輪にされた挙句に、尊い命を失うことになるのである。
 そもそも、人間の体というものは、どの部分にもすべて大切な働きがある。神は不必要なものを一つも付与しておらず、不用な器官はすべて自然に退歩してなくなっていく。人は猿の子孫ではないが、元は尻尾があった。その証拠には尾底骨が残っている。おたまじゃくしの形をした精虫時代には尾があった。しかし母胎内での十月十日の間に不用な尻尾はなくなって、次に必要な、そして精虫時代には全然面影もなかった手足が出来てくる。
 そのように神は必要があればなんでも創造されるのである。加えて、それだけの偉大な生命力を万人は付与されているのである。しかし前述した如く、過去からの悪因縁に邪魔されて、その力を最高度に発揮されないでいる。そのために邪魔している悪因縁を取り除き、人は本然の姿に戻らなければならない。しかしその悪因縁は人間の力で取り除くことは不可能なのである。ところが本当の神の力にふれてゆけば、霜や氷が朝日にふれて溶けるが如く、その悪因縁が過去に遡り消滅する。そこが、わしの説いている真の日本神道である。それでわしに帰依する者は1人残らず、驚異的な奇蹟現象の体験をしているのである。よく宗教を信仰すれば病が治ると言われるが、どんな病でも放置して治る場合がある。たとえば田舎等で医者がいなかったり、医者にかかる金がなくて放っておいた人が皆死ぬかというと、そうとは限らない。いつの間にか治る人がいる。と同様に、たまたまその信仰と病が治る時期とが一致して良くなったのを、信仰によって治った治ったと吹聴しているのにすぎない!
 しかし10人のうち8人の病が治ったとすれば、その宗教を信じてよい。あとの2人は信仰しておりながら間違ったことを蔭でやっている人がいるから救われない場合があり得る。しかし、8割の人が治れば間違いはないと見ても差支えなく、残りの2割の人も正しい信仰に入って、間違ったことをしなければ必ず良くなるはずである。ところが50人、100人の中の1人ぐらいが治ったからといって、それに目がくらんで盲信すると恐ろしい結果に陥ってしまう。だから、宗教を信ずる規準としては、その救われる確率とともに、そこに起きてくる現象の質である。、人類発生以来、わし開いた真の日本神道の如く本当に救済力のある超宗教は存在しなかったから、足を切断して、なくなったエノケンさんの如く考えるのは常識的にみれば当然のことである。しかしお気の毒なことであった。ガンにしても誠に悲惨なものである。ガンに患る人は50代からの人が多い。長年働いて退職金を貰い、余生を如何に暮らそうかと思っている年代であるが、一度そのガンに患ったら最後、手術してその金を使い果たし、ほとんどの人が命を断たれ悲惨な境涯に陥ち込んでしまう!わしが真の日本神道を開いたのは、この世の中からそのような誤った治療を受け悲惨な目に遇う人がいなくなるようにするためである。わしの所へ来れば誰でも痛い目、苦しい目に遇わず、いかなる病苦からも解放され、そして運命は好転し、人生最後のときには「大安楽往生」、即ち「崇高な転生」が叶えられるのであって、それが人として真の生甲斐のある生活なのである。

 



さて、みながわしに帰依すると、宗教の最高理想である死後の救済「大安楽往生(だいあんらくおうじょう)」すなわち「崇高な転生」ができる。極楽往生(ごくらくおうじょう)ということは死ぬのではない。息を引きとった後、けっこうな境界(きょうがい)に転生(てんせい)し、いつまでも生きながらえることである。人が極楽往生する時には、定命(じょうみょう)を全うして安らかに息を引きとり、いつまでたっても硬直現象(こうちょくげんしょう)がなく、体温もなかなか冷めない。そして、死後数時間ほどたつと、非常に若返って相貌(そうぼう)が崇高(すうこう)になり、常識では考えられない大安楽往生現象が起きてくる。ところが、この大安楽往生(崇高な転生)を願って、人がキリスト教で説く「天の父」や、仏教で説く西方浄土(さいほうじょうど)の「阿弥陀如来(あみだにょらい)」などをいくら真剣(しんけん)に信仰しても、決して求め得られない。なぜなら、釈迦・キリストの信仰の対象物である「神の本源(ほんげん)」と、人との間には大きな隔(へだ)たりがあったからである すべての人が願い求めている理想、真の「大安楽往生」の境地に入った人は、わしに帰依した者を除くと、過去に高野山(こうやさん)の弘法大師(こうぼうだいし)さんぐらいであり、他の人はほとんど入れていない。然しながら、わしがこの地球に来たことで人類の全ての人が人生の最後に全部の者が崇高な転生、大安楽往生できる時代がついに到来(とうらい)したのである。
 
大塚寛一先生1972年5月18日に逝去されました。このことは「御神座」と呼ばれ、神の座に戻ったことを意味します。81歳でした。生前、多数の人々を大安楽往生、崇高な転生をさせていた大塚先生は、自らの往生の時において、想像を絶する神々しさ(こうごうしさ)を表しました。逝去の後、その尊体を正式に安置する準備が整うまでに、翌年2月までを要しました。そして(その間の)約9か月においても、大塚先生のご尊体は、少しも変わることなく艶々(つやつや)として、温かく、柔らかでした。こうして大塚寛一先生は、地上での聖業を終えられ、より大きな神の御業(みわざ)をされるために、天に帰られたのです。それは、終わりではなく、新しい段階の「輝かしい始まり」でした。
 
つまり、御尊体を奥多摩万寿山の降臨閣にお移ししたのが昭和48年2月であり、御神座からそれまでの9か月間、東京目黒区青葉台の御聖居に仮安置されていた御尊体は、全く腐敗などすることがなかったのです。暑い真夏を挟んだ9か月間です。1973年2月6日に「御神座祭」がなされました。今、人類大救世主大塚寛一先生の「ご聖体」は、奥多摩萬寿山降臨閣の下にそのままのお姿で鎮座されておられるとロニは聞いております。
 
(下記は、信者ではない友人マイケル様のブログから引用でございます。尚、ロニは団体への勧誘は致しておりませんので、あしからず。ご自分でご判断願います。神界佇立の大塚寛一先生に貴方の祈りが届けば、奇蹟現象を体験させていただけます。実証を見てから、ご判断願います。)
http://blog.livedoor.jp/mysticart/archives/1820026.html