いい日旅立ち | 魔法の夢ノート書こっか(引き寄せ☆断捨離☆ミニマリスト☆好きに囲まれて暮らす)

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いい日旅立ち

 

羊雲を探しに

 

父が教えてくれた

 

歌を道連れに

 

 

 

 

 

 

 

 

ここ最近のブログの裏側。

まるで

「カメラを止めるな」のネタバレのように

後からの

「あの時のブログの裏にこれがあったのか」

になってしまいました爆  笑あせる

 

 

 

2月26日(火)未明、

父が天国へ旅立ちました。

 

 

そして

3月9日(土)

晴天の暖かな春の日に

告別式が無事に終わりました。

 

一日葬という通夜なしのお葬式で

親しい親族だけに声をかけ

優しい葬儀になりました。

 

都内の区営、臨海斎場。

東京湾埋立ての運河のそばで

新しい施設でとても綺麗な斎場です。

 

運河の橋の上より。
右側が臨海斎場です。

 

 

私も初めて行ったんですが、

入り口を入るともう目の前が式場でした。

ロビーとか無駄な物がなく

本当の葬儀の場所でしたね。

2階に控室、食事処などあり、

とても綺麗でした。

控室は仮眠が取れる

シャワーやトイレも完備の和室でした。

 

葬儀は、

一年も前から見積もりを取ったのに、

ずっと考えるのを先延ばしにしていたので

結構、大慌て。

 

父が、あまり食べなくなったと

聞いた頃から、これはそろそろ・・・と

急いで3つくらいに絞ってネットで

口コミを読んでいたところでしたが

確実なここ・・・は決めていませんでした。

 

父の旅立つ3日前辺りに

口コミで比較してた

「小さなお葬式」がいいとの話で

ここしかないかとこちらを利用することにしました。

 

正直、

まだ葬儀屋決めてないのに

いかないでよって思いました!

 

 

小さなお葬式で紹介してくれた

葬儀屋さん。

父が亡くなった日にすぐ来てくれた

営業担当の男性もいい人で

連絡はLINE

すぐに返事もくれるし

対応もしてくれるし

本当に

とてもいい葬儀屋さんでした。

 

葬儀の司会進行は女性でした。

こちらの方もとても優しくて丁寧で

すごい気遣いの利く人で

本当に、遺族に寄りそう葬儀屋で

私が紹介されたところは

とてもラッキーないい所でした。

 

小さなお葬式は紹介する葬儀屋に

当たり外れがあるそうで。

これまた「運」なのかな?

 

 

臨海斎場はとても人気なので

混んでいて

亡くなった日にすぐに予約しても

11日後の3月9日しかあいていませんでした。

 

 

11日間も冷たい冷蔵庫安置になってしまい

じいちゃんごめんね。

(孫が生まれてからは、いつもじいちゃんと呼んでいました)

 

最初の週間予報は雨だったのに

とってもいいお天気で

暖かな日。

父が配慮してくれたのかな?

 

 

 

ブログに書いていましたが、

父は2月23日(土)

介護ベットを入れた時はまだ元気でした。

 

 

ストロー蓋つきカップを見つけたので

それも持っていこうと

翌日日曜日、父を訪ねた時に

 

なんだかとても弱々しくなっていて

おかしいなと思いました。

 

父が最後に私に

「クロレラ持ってきて」

と言うのでサプリかと思って

「え?丸い粒?」

と聞くと

「赤いやつ・・・」

と言ったので

「それアセロラじゃないの?」

と言ってみました。

 

父はR-1ヨーグルトのアセロラを良く飲んでいたんです。

でも、だいぶ飲んでないけど?

そういえば、メイバランスもヨーグルト味だから

それで思い出したのかな?と思いました。

 

私は次に行く時に持っていこうと思いました。

 

 

月曜日、

朝のうちに、

訪問介護在宅医療の先生に電話して

父がむせたりします、誤嚥の心配と話すと

今日も診察に行くので診てきますとのことでした。

 

昼に母に電話すると

父が、パジャマまで濡らしてもらしたと。

それで、母が買い物から帰ったらそうだったので

必死に全部パジャマも着替えさせて

シーツも取り替えたと言うのです。

 

汗だくよ~なんてブツブツ言っていました。

 

思えばそれが

死に際にでる、体の中の水分だったのでしょう。

 

午後、訪問在宅医療の先生から電話で

父の酸素レベルが80%くらいで

急に落ちてると・・・。

これでは、腰の痛みの検査入院もできないだろうと。

この状態のままだと2~3日かもと。

 

え?

 

すぐに弟にもメールして今日か明日に行った方がいいよと

言いました。

弟はその月曜日に、父に会いに行ってくれました。

様子をメールで聞くと、

顔見て、手をあげて、よぉ!みたいにするけど

会話しなかったと。

あれは、危なそうだな?

とのことでした。

 

私はその日、歯医者だったので

火曜日の午後に

R-1ヨーグルトアセロラと吸い飲みを持って

行こうと・・・。

息子たち(孫)にも来るようにと決めていました。

 

ところが、

火曜日の朝、6時前に

実家からの電話が鳴りました。

 

その着音を聞いた瞬間

これはまずいなと飛び起きて出ると

母が

「パパ、亡くなったよ。冷たくなってる。」

 

 

そうです。

父は、月曜の夜に寝たまま

そのまま、旅立ってしまったのです。

 

あの晩、書いていたブログ

1:41

もしかしたら、その時間に

父は旅立ってしまったのかもしれない。

そう思うと

その時間を動かすことができませんでした。

 

 

父の言った

「クロレラ」がR-1ヨーグルトのことだったのか

確かめることはもうできません。

買ってあげた吸い飲みは

使うことなく、家に放置したままです。

 

あの晩、

火曜日に行ったら、

父の好きだった童謡を聞かせようと

「みかんの花咲く丘」

 

 

 

 

「鐘の鳴る丘」

 

 

 

 

 

をyoutubeで探して聞いていたら

なんだか凄く泣けてきてしまい、

一人で涙していました。

 

きっと父の最期の知らせだったのかな。

 

 

自宅で亡くなりましたが

在宅医療の先生がついているので

自宅看取り。

警察のお世話にはなりません。

 

先生に電話したら

そのままそっとしておいてとのことで

私が実家について

弟も呼んで

母と三人、揃ったところで

先生が来てくれて

「ご臨終です」

という言葉を聞きました。

 

前立腺癌の疑いがあり、

骨転移の可能性もあると

血液検査の結果から推測されていました。

 

でも、CTも撮れずにいたので

最期の原因はわかりません。

 

先生が死亡届には老衰と書いてくれました。

誰もが望む自宅での老衰。

病院で管に沢山繋がれることもなく、

無駄な点滴もしないでの

寿命の全う。

とても名誉な死因です。

 

 

 

先生も昨日あのまま直ぐにいってしまうとは

思わなかったと言っていました。

そんな本当に突然のサヨナラでした。

 

せめて

R-1であってたの?と飲ませてあげたかった。

 

月曜日、やっぱり歯医者なんか

ほったらかして行けば良かったかな?

そんな風に思ったりもしました。

 

でも、日曜日にちゃんと会えたからと

自分に言い聞かせています。

 

 

先生が確認した時刻が死亡時刻になります。

実際に亡くなったのは真夜中何時だったのか

本当のところはわからない。

だから、あのブログを更新していた時間かもしれません。

 

母が4時近くに起きてきて

おむつ濡らしてないかと見に行ったら

もう冷たくなっていたとのこと。

 

おむつに漏らすことは本当に無かったんだけど

少し濡らす程度で、自力でトイレに行ったりした

すごいおじいちゃんでした。

 

亡くなる前日の朝には

自力でトイレも行き、

歯磨きもしたという。

 

本当に、自宅が大好きで

家で死にたいという希望を

しっかり叶えていきました。

 

テレビや人の話では

最期の時に家族に見守られながらーーー

というのが普通だと思っていました。

 

 

呼吸が止まる瞬間も

脈が止まる瞬間も

何もわからずに

父は一人で旅立ってしまいました。

 

最期の瞬間を

誰にも見せたくなかったのかな?

まるで動物たちの最期のように

一人でさっさといってしまいました。

 

よく、亡くなってすぐは

まだ温かいなんていうけれど、

母が気づいた時には

もう冷たくなってたいました。

 

私が実家に行ったときも

ベットに横向きに寝ていて

触った頬がまるで金属のように冷たかった。

人ってこんなにも

冷たくなってたしまうんだなと

初めて知りました。

 

葬儀で棺に入って再会した父。

最期のお別れに触れたオデコも

お豆腐のように冷たかった。

 

自宅で亡くなると

そのまま死後硬直してしまうので

病院のようにきっちりと真っ直ぐ寝かされずに

丸まったままになってしまい

ちょっと可愛そうな姿かなと

衝撃的でした。

 

葬儀で再会の父は

キチンと寝かせれ、

ぐっすり眠ったままのようでした。

綺麗なお顔でよかった。

 

 

遺影は私が撮した新潟で

家庭菜園でとれた大きなキュウリを持った笑顔。

他に弟の結婚式での写真がありましたが、

どれもすましてる顔で良くない。

納得がいかないのは嫌です。

妥協も嫌です。

 

 

キュウリの写真を葬儀屋さんに見せたら

笑顔が最高!と加工してくれました。

キチンとスーツ着せてネクタイもつけてくれて

私がこれがいいといった笑顔が遺影となりました。

もちろんキュウリもカットしてくれて。

それはそれは本当に嬉しかった。

 

最後まで私が決めれて

本当に嬉しかったです。

 

そして

葬儀でも

皆が良い笑顔、いい写真だねと

誉めてくれました。

 

それが一番嬉しかったです。

 

 

家に戻った写真を見て

母が

「じいちゃんが笑ってるから

話しかけてたわよ」

と何度も言います。

 

本当、妥協しないでこの写真を送ってみて良かった。

今の加工の技術に感謝です。

 

 

 

95歳と言う年齢。

だんだん、介護になってくる日々。

 

もう長くないと言うのは

分かっていたのだけれど

やはり、本当にいなくなっちゃうと

心のどこかに喪失感。

 

友達に

頭ではわかっているけど

心が悲しんでいるんだよと言われました。

 

 

葬儀まで長かったので

あれこれ考えることもいっぱいあり、

ぼ~っと凡ミスの多い日々でした。

途中、生理もきちゃって

本当に辛い毎日でした。

 

 

 

正直

葬儀がこのまま来なきゃいいや

来ないで欲しいなんて

思っていました。

 

様々なプレッシャーを感じてたので

もうこれで全て終わっていればいいと

思ってしまってました。

 

 

 

 

 

銀魂のイベントにでかけても

ライブの歌の最中は

父の事が頭に浮かんでしまい、

すごく凄く疲れたイベントでした。

 

もちろん、大好きなアニメ

大好きな声優さんたちと会えて

楽しくて仕方ないんだけど、

疲れも凄く感じました。

帰りに折り畳み傘も忘れたし。

見つかったけど。

 

 

父の事は

会社には伝えてません。

お香典を集めて・・とかやられるのが嫌で。

月曜日、葬儀が終わったことを

私の上司の女性にお話しするつもりです。

 

派遣会社の営業担当には金曜日にメールしました。

いい女性担当で、

「仕事なんていいから、しっかり葬儀で泣いてきて」

と言ってくれました。

 

 

悲しい時は泣くんです。

泣かないと、前に進めません。

私も、きっとある日突然

おお泣きする日が来るかもしれません。

 

その時は、思いきり泣きたいと思います。

 

 

父の死は

最初は家族、親族以外

誰にも伝えていませんでした。

 

それも結構辛かった。

会社でも誰にも言えなくて。

友達にも言うのやめようと思ってましたが

介護の事をあれこれ話してた

学生時代の友達の二人に打ち明けて

聞いてもらえて軽くなりました。

 

そして、

不思議な事に

上の息子の幼なじみ

母親学級からのお友達のママ友が

あの時期、上京していて

しかも私の会社の近くに買い物に来てました。

 

お昼休みの15分だけ会いに行き、

悩んだけど打ち明けました。

 

きっと呼ばれてんだね

運命だね

そんな会話をして、

彼女も旦那さんのお母さんを数年前に亡くし

葬儀が家族葬で

それでも大変だったことを知っているので

お互い何もしないし、

他の人には言わないねと決めました。

 

でもそんな友達に聞いてもらえたこと。

ホントにココロが軽くなりました。

 

 

後日、会社の人

一部に伝えたら

もっとラクになりました。

 

 

 

葬儀の段取りは全部私が決めました。

お花の事、

遺影も、

挨拶も・・・。

 

「いいお式だったね」

叔母にそう言ってもらって

涙が出ます。

 

 

ずっとずっと介護の手配をして

頑張ってきた私

そして、

父のお世話をしていた母

 

私たちの卒業式でもある葬儀。

だから私が全て仕切りたかったのです。

 

私、がんばったよね

偉かったねって

自分で自分を誉めよう(笑)

 

 

 

葬儀の挨拶も私がしました。

挨拶と言うよりも

父と私のエピソードを読みたいと・・・

 

 

今日はどうしても最後に伝えたかった、父と私のお話をさせて下さい。
あれは、私が5歳の時、母が、弟を産む前に入院していた時のことです。
私は、近所のおばあちゃん、五反ばあちゃんに預けられていて、

ご飯は、いつもばあちゃんと一緒に食べいました。
でも、あの日は、父が五反田のレストランに連れて行ってくれたのです。
ママっ子だった私は、父と二人きりなんて慣れてませんでした。
でもきっと嬉しかったんだと思います。そこは、覚えてないですけど。
注文したのは、ハンバーグ。
ハンバーグを食べた父は、ソースが少し辛かったので、「辛いなぁ」と言っていたと思います。
そんな食事中に、私の後ろに座っていた男の人が席を立つのに私の頭にひじをぶつけてきました。
結構、ゴツンとなって痛かったんだと思います。
そこで、少し、メソメソしたのかもしれません。

すると、父が、慌てて「大丈夫か?痛いか?痛いか?」と何度も何度も聞いてきたんです。
私が何も答えなかったので、
父は、さらに慌てて、

「大丈夫か?痛いのか?ハンバーグが辛いのか?」とおろおろと何度も何度も、大丈夫か?を繰り返していました。
あの時、泣いてたのは、痛かったからでも、ハンバーグが辛かったのでもなく
父の「大丈夫か?」が、とっても優しかったからなんです。
それを私は、ずっと伝えることができませんでした。

父がおじいちゃんになって、
昔のことなんて覚えてないだろう頃にそんな話をしても、

きっと伝わらないだろうなと思っていました。

だから、あえて、話はしていなかったんです。
それで、ずっと決めていました。
最後のお別れの日に、この話を必ず、父に伝えようと。
じいちゃん、あの時は、優しくしてくれてありがとう。
以上が私と父とのお話です。

皆様、聞いて下さり、ありがとうございました。

 

 

泣かないつもりで頑張ってましたが

声がうわずってしまい

ギリギリ、頑張って読みあげました。

 

 

 

ブログお休みしようかとも思いましたが

書くこと大好きな私は

普通の私でいたくて

書き続けてきました。

 

つまらない日常の話しか出来なくて

みんなに、参考になるような記事

アメトピに載せれるような記事は

出来なかったけれど。

 

これからも

直ぐにはそんないい話は書けないけれど

頑張って更新したいと思います。

 

父が毎日、日記を書いていたように

私も頑張ろうと思います。

 

 

読んでくださり

ありがとうございました。

 

 

 

いい日旅立ち。

 

父もきっと天国で

自分の父母、兄、姉、妹と

楽しく団欒していることでしょう。

 

 

 

旅立ちの日に を聞いてから

頭の中から

歌が離れず、ずっと歌っています。

 

 

 

 

 

 

ずっと考えていたのは

私が再婚したら

家族だけで教会式やりたいなぁーって事。

 

私は結婚した時は神前式だったので

父とバージンロード歩く事はなかったので。

 

 

その時は父と並んで歩きたいなと

ココロの隅で考えていた。

 

父がやっとこ歩いてた頃。

車椅子を息子たちが押して

並んで歩くかなぁなんて思っていました。

 

 

もうそんな夢は叶えることは出来なくなってしまったけど

↑早く再婚しない、私も悪い(笑)

 

 

大切な人との別れは

ソウルメイトと出逢う前触れでもあるとか。

 

父に似てない

素直で優しくて

奥さんを姫のように扱ってくれる

ハリーなダーリンと

出逢いたいと思います(笑)

 

なんだよって

天国でキュウリ持って笑ってる父の顔が

浮かびます。