知られざる日本式石垣  ー釜山鎮城ー | あなたの知らない韓国 ー歴史、文化、旅ー

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  こんにちは。
  皆さんいかがお過ごしでしょうか。
 
 釜山はソウルに次ぐ韓国第2の都市として知られていますね。古くから日本や東アジア諸国とも交流が深いところであり、日朝貿易を担当した対馬藩関係者の居留地である倭館が設置されたのも釜山でした。
 
 今回は江戸時代以前、秀吉の朝鮮侵略にかかわる遺跡について紹介したいと思います。日本では文禄年間と慶長年間の2度にわたって起こされたので「文禄・慶長の役」、韓国では「壬辰・丁酉倭乱」と呼ばれます。文禄の役の最初の激戦地である釜山鎮城についてご紹介します。
 
 九州・東北地方を平定し、天下を統一した豊臣秀吉はあくなき領土拡大への欲望を満たすため、「高麗 大唐 南蛮」まで従えるのだという妄想をいだくにいだきます。
 
「仮道入明」、すなわち朝鮮に道を借り明(当時の中国の王朝)へ行くという名目で、1592年4月13日、秀吉軍は釜山に上陸し、いわゆる文禄の役がはじまりました。その第一陣として朝鮮に渡ったのが小西行長率いる1万を超える大軍であり、まず攻撃の対象になったのが釜山の関門とも言える釜山鎮城でした。
 

 

 

 

    釜山鎮城は現在の釜山駅の北方約3km、釜山都市鉄道佐川駅の西側約500mの地点にあります。釜山港を見下ろす絶好の地点で、現在は公園になっており、自由に見学が可能です。釜山鎮城陥落後、秀吉軍が改築(甑山倭城)したことにより日本式の石垣が残存しています。

 

 

    朝鮮側にとっては秀吉の侵攻など思いもよらないことで、特別な備えはしていなかったことからどの地点も兵力は手薄でありました。小西行長軍は大軍で城の一番高所にある西門を攻略し、城壁を超えて城内に侵入したようです。当時、この地を守護していたのは釜山僉節制使  鄭撥 (정발:1553-1592)でした。彼は朝鮮への入り口にあたるこの地で城を拠点に果敢に日本軍と戦いますが、多勢に無勢、圧倒的な兵力の日本軍との戦いの中で被弾して戦死を遂げ、その他城内の人々も大半が戦死したとのことです。

 

 

 

 

    この山を下から見上げると甑のように見え、釜と甑を関連させて釜山の地名になったとの説もあるようです。

 

 

   直線的に伸び、隅で直角に曲がる日本式山城の特徴がよくわかります。

 

 

 

    城からは釜山港の様子が一望でき、軍事的にも交通的にも要衝の地にあったことがわかります。

 

 

 皆さんも釜山に立ち寄られたら、手近に時間旅行されるのはいかがでしょうか。結構おすすめですよ。