2,仏師の誕生 | よしやんのブログ

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法隆寺は奇跡の寺。謎の寺。不思議がいっぱい。
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2,仏師の誕生

(「なぜ運慶はリアルな仏像を制作したか」の続き)

 

それまで官営や大寺の造仏所に所属していた仏工たちは、平安時代に入ってからは、大寺の制約を離れて、仏師とよばれ仏所をもって活躍する時代になった。

大寺からは、活躍ぶりが認められると、僧鋼位(僧正・僧都・・・、工人は上から法印・法眼・法橋)が与えられた。

 仏師は、天皇家、摂関家の造仏に関わるための活動も加わり、その中心仏師が大仏師とよばれた。

 

唯一定朝の作と確証のあるある宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像(日本美術史上重要な遺産の一つ)

唯一確かな定朝作であると、「週間朝日百科」(日本の国宝)に報道された。

 

 

大仏師・定朝の仏師集団には弟子の長勢や円勢が起した円派と、定朝の子、覚助を継いだ院助が起した院派があり、京都で宮廷や貴族社会と結びついて活動・造仏を行っていた。

 

 定朝の孫の頼助は活躍の場を奈良においたが、造仏よりも修繕が多く、後を継いだ康慶・運慶の親子が奈良仏師を率いることになっていった。

    (以上、次回に続く)