須磨寺副住職 陽人のひとり言 -20ページ目

須磨寺副住職 陽人のひとり言

生きるための仏教を求めて

かなーり長いことお休みしていたこのブログ、

また再開させていただきます。。

あ、

あけましておめでとうございまっす!


なぜ、こんなにブログを書けなかったか。今から言い訳を書きます。

とにかく、年末年始、祈祷寺は忙しい!!!

御祈祷も増えて、和上さんのお勤めは、普段の倍以上の長さになる。

31日の大晦日、、

夜11時ころ

お寺は不気味なくらい、人が少なく、

まるで嵐がくる前の静けさのようだ。

11時30分を過ぎた頃から人が増え始め、、

まさにカウントダウン間近になると、

境内は人で埋め尽くされた!!


そして、大合唱

「3、2、1!!」

ゴーン

遠くの方からもお賽銭が投げこまれる。

お賽銭箱の横でお札を授与している人は、お賽銭が当たらないよう必死にガードしていた


二時前まで受付にすわり、四時に起床だったので、仮眠をとることに

三が日は毎日大般若の法要があるので、準備に追われた。


この時期は年に一回来る人が多いのだという。

お札を受けに来る人、ご祈祷に来る人、厄除けにくる人などなど


噂では、三が日の参拝者数は35万人を超えたとか。。

噂です。まぁ、でもそのくらい来てそうだなと思う。とにかくすごい人だったから。


そして、三が日が過ぎてからも日曜日は交通規制がかかるほど参拝者が多い。

平日も昼前は、手が追いつかないほどだ。

それが今なお続いている。



いつまでお正月なんだろう


と思うほどである。

節分が終わるまでは忙しさは続くみたいだ。


それにしても、山の上にあるお寺でこんなに人が来るというのはすごいことだと思う。

交通規制の時は、一方通行になるため、

かなり遠回りしなければいけない。

それでも、お年寄りの方も含め、たくさんの人が何十分もかけて歩いて来られる。


そう考えるといくら忙しくても、参拝者の方には一人ひとり丁寧な対応でなければなぁと感じた。


今年は寒いですが、がんばりましょーー!!!(自分に言い聞かせてます)


そんなわけで、今年もよろしくお願いします◎


P,S

とある有名人カップルがプライベートでお参りにきていた。

学生アルバイトにそれを聞かせれ、テンション上がった僕は、

そのバイトと一緒に走って追いかけてしまった。

その後で、すごく恥ずかしくなった(笑)だって作務衣姿の僕はどっからどうみてもお坊さんだもの

修行の足りなさを感じる今日この頃です

すごくいい詩を姉から紹介してもらった。

茨木のり子さんの詩です

「汲む
 ―Y・Yに―

大人になるというのは
すれっからしになることだと
思い込んでいた少女の頃
立居振舞の美しい
発音の正確な
素敵な女のひとと会いました
そのひとは私の背のびを見すかしたように
なにげない話に言いました

初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始るのね 墜ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなかった人を何人も見ました

私はどきんとし
そして深く悟りました

大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
失語症 なめらかでないしぐさ
子供の悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
年老いても咲きたての薔薇  柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと……
わたくしもかつてのあの人と同じくらいの年になりました
たちかえり
今もときどきその意味を
ひっそり汲むことがあるのです 」


うん、これは今の僕にすごく響きます。


もうひとつ


倚(よ)りかからず ※73歳の作品

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ






きっと仏教は既成のものではないと思っている。

僕は、宗教を毛嫌いする人が増えてきている気がする(特に若い人で)

それは、オウム真理教とか

変な宗教が増えてきたから無理もないことだと思う。


そんな中で、修行道場時代の先生がある経験をお話してくれたことを思い出す。


その先生は、ある日講演に行って、

「仏教や宗教が嫌いな人はいますか?」

と問うたらしい

すると何人かの手が上がって、そのうちの一人に理由をきくと

「宗教は人がつくったものだから、信じたくない。」

と答えたという。


仏教は人がつくったものなのだろうか。

仏教はブッダが世の中のあらゆる「苦」を消滅するにはどうしたらいいかという

問いかけからはじまった。

そしてブッダは真理を悟る。その真理はブッダがつくったものなのだろうか。

ブッダは深い瞑想のなかから、

「諸行無常(物事は常に変化をくりかえして、とどまることがない。)」

「諸法無我(無数の力に支えられて世の中が成り立っている。)」

という真理を悟った。

自分らを救ってくれる神はいません

あらゆる苦しみを生み出す原因は、

無明(知恵のない状態)である「じぶん」にある。

だから、自分自身の心を鍛えて、真理を悟る知恵をみにつけて

自分を変えていくことで

「苦」を消滅していくしかない


すごく合理的だなぁと思う。

仏教はブッダが示した生き方

それは、「よりかからず」の詩と同じで

誰に依存するわけでもなく、

自分自身の足で、自分だけの道を歩くことなのかな


ろくに勉強もしないで、

浅はかな文章を書いてしまいました。


でも、こういう解釈、むしろ現代に馴染みやすい気がするのです

またまた、ながいことブログをお休みしていました。

今修行しているお寺に来てから、来月で半年がたちます。

紅葉の秋。境内には樹齢約400年の大きな銀杏の木があって、

きれいな黄色にそまっています。

秋に生まれたからか、僕は秋が大好きです。


最近は、過ぎていく月日がものすごく早く感じます。

思えば修行道場にいた去年は本当に一年が長くて長くて、嫌になるくらいでした・・・笑

それだけ濃かったのかもしれません。

自由がほとんどない一年間は僕の人生で去年が最初で最後だろう。(この先刑務所に入らなければ)

修行道場では、朝起きてから、夜寝るまでやるべきことがすべて決められている。

そしてやってはいけないことも、山ほどある。

四六時中決められたルールの中で生活をする。

このルールのことを「律」とよぶ。


慣れるまでは、ものすごく面倒だし、なんでこんなこと守らなきゃいけないんだよ!とか思う。

食事中は話したり音を一切たててはいけないという決まりがあるんだけど、

これ聞いたときは、

「いあ~楽しくたべたほうが、いいでしょ!」

とか思ったりした。

ただ、今考えてみると、このうっとうしかった

律たちに守られて、修行できていたのかなと感じる。

社会で言えばこれは、法律にあたるだろう。

なぜ法律があるか。

これはみんなが生きやすくするためだと思う。

もし法律がなかったら、

なにをするにも

「これやったら、こうなってああなって、最後はこうなるから、やっぱりやめとくかぁ。」

とかいちいち考えていたら、気疲れしてしまう。

これはだめです!と法律できまっていれば、ただそれに従って、

余計なことは考えなくてすむ。


修行時代の律もそうだ。

あれこれ迷うことなく、律をひたすら守っていれば

それが修行になるのだ。


それに、昔から仏教者にとって律は、

「実直な思いで仏道を歩んでいる」という唯一の目に見える証だったという。


今の生活は修行道場よりも自由だ。

あの時のような律はないのだ。言ってみれば、すべて自分次第。

正直自分に甘えがでてしまうことも多々ある。

律がなくなった今、よりよい修行を目指すことはいっそう難しくなった。


先輩たちによく言われたことがある

「学院(修行道場)時代は楽だったって思う日がくるから!!」

そのときは、

いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや、

終わったからって好きなこと言ってー


とか思ってたが、

楽だったとは、思えないけど

社会にでたら違う厳しさがあるということが、だんだんとわかってきた気がする。


最後に本でよんだ昔のインドの律を少し紹介します。


ツボに入った高級な飲み物をストローを使って、吸い上げて盗み飲みをする場合。


吸い上げてる飲み物が、ストローを上がっている最中で口に到達していない場合

→未遂罪

口の中にはいった段階

→未遂罪

ごっくんと、のどを通ったら

→窃盗罪となって、修行団体から永久追放!!!!


理由は

「のどを通り過ぎる前なら、まだツボにもどせるから」


さすがインド人!!!!