人がつくったもの | 須磨寺副住職 陽人のひとり言

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生きるための仏教を求めて

すごくいい詩を姉から紹介してもらった。

茨木のり子さんの詩です

「汲む
 ―Y・Yに―

大人になるというのは
すれっからしになることだと
思い込んでいた少女の頃
立居振舞の美しい
発音の正確な
素敵な女のひとと会いました
そのひとは私の背のびを見すかしたように
なにげない話に言いました

初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始るのね 墜ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなかった人を何人も見ました

私はどきんとし
そして深く悟りました

大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
失語症 なめらかでないしぐさ
子供の悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
年老いても咲きたての薔薇  柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと……
わたくしもかつてのあの人と同じくらいの年になりました
たちかえり
今もときどきその意味を
ひっそり汲むことがあるのです 」


うん、これは今の僕にすごく響きます。


もうひとつ


倚(よ)りかからず ※73歳の作品

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ






きっと仏教は既成のものではないと思っている。

僕は、宗教を毛嫌いする人が増えてきている気がする(特に若い人で)

それは、オウム真理教とか

変な宗教が増えてきたから無理もないことだと思う。


そんな中で、修行道場時代の先生がある経験をお話してくれたことを思い出す。


その先生は、ある日講演に行って、

「仏教や宗教が嫌いな人はいますか?」

と問うたらしい

すると何人かの手が上がって、そのうちの一人に理由をきくと

「宗教は人がつくったものだから、信じたくない。」

と答えたという。


仏教は人がつくったものなのだろうか。

仏教はブッダが世の中のあらゆる「苦」を消滅するにはどうしたらいいかという

問いかけからはじまった。

そしてブッダは真理を悟る。その真理はブッダがつくったものなのだろうか。

ブッダは深い瞑想のなかから、

「諸行無常(物事は常に変化をくりかえして、とどまることがない。)」

「諸法無我(無数の力に支えられて世の中が成り立っている。)」

という真理を悟った。

自分らを救ってくれる神はいません

あらゆる苦しみを生み出す原因は、

無明(知恵のない状態)である「じぶん」にある。

だから、自分自身の心を鍛えて、真理を悟る知恵をみにつけて

自分を変えていくことで

「苦」を消滅していくしかない


すごく合理的だなぁと思う。

仏教はブッダが示した生き方

それは、「よりかからず」の詩と同じで

誰に依存するわけでもなく、

自分自身の足で、自分だけの道を歩くことなのかな


ろくに勉強もしないで、

浅はかな文章を書いてしまいました。


でも、こういう解釈、むしろ現代に馴染みやすい気がするのです