真実一路を悠々と -3ページ目

真実一路を悠々と

自分のペースで一歩一歩

With us という団体のサマーキャンプに参加させていただくことになりました!

http://withus.p1.bindsite.jp/campaign/index.html


このサマーキャンプの特徴は、教職or教職志望者が100人ほど集うということ。


小学校教師をやってみたい!と考えている自分にとってはきっといい刺激になると思うし、

あと、9月から教育実習が始まるので自分の想いを見つめ直すきっかけになればとも考えています。



もし教職志望で興味がある人がいたら一緒に参加しましょう!


日にちは8月24~26日で、場所は神奈川県の厚木です☆

今日は新宿の映画館で「ちいさな哲学者たち」という映画を観てきました!http://tetsugaku-movie.com/




きっかけは、Twitterでの紹介。



“ちいさな”と“哲学”というワードにひっかかったのと、そのあとトークイベントがあるということで観に行ってみました♪







どんな映画かというと、フランスのある幼稚園で行われている「子どもたちの哲学の授業」を追ったドキュメンタリー映画。




3~5歳の子どもたちが、「自由とは」「愛とは」といった哲学的な問いについて徹底的に子どもたちの言葉で“対話”していきます。




パリという土地柄からか、肌の色や文化的背景の違う多様な子どもたちが集まっているのですが、そんな言葉たちから発せられる言葉は多様性に溢れていて、かつ真っ直ぐで、見ている大人たちが「ハッ」とさせられる場面が多々ありました。












このフランスの幼稚園の子どもたちの活動を通して考えさせられたのは、



“考える”とは何か



ということ。




このフランスの幼稚園の子どもたちは、「哲学の授業」で「頭がいいってどういうこと?」というような問いについて、自分たちの生活体験に足場を置いて、自分はこう思う、こう考えるを言葉で発していくわけなんですが、



それに対して、日本の教室に目を向けてみると、同じ“考える”でも何か勝手が違う気がします。


日本の授業では、前提として一つの正解があって、それを先生が持っているというのがあって、

その先生が持っている正解は何かを子どもたちが考えることが多い。



前者は、正解のない問題について自分なりの答えを出し、その意見を交流させていくのに対し、

後者は、すでにある正解をいかに速くかつ正確に探すかに終始している。



この2つを比べてみたときに、本当の意味で自分の頭で考えているのはどちらかと

考えてみると、僕は圧倒的に前者だと思うし、


後者の一つの正解を素早く正確に探し出すというのは、考えていると言えるのかというと疑問だなあと感じました。






ただフランスの幼稚園の取り組みで課題だなあと感じたのが、子どもたちが既存の社会の枠組みの中で考えていることが多いということ。


例えば、人種のことについては、白人は優秀で、黒人はそうではないというものであったり、

愛については女性が女性を愛することはできないというものであったり、


既存の社会の価値観の中から抜けきれない場面が見られたので、

「本当にそうなのか?」を考え、いかにそこを脱していくかというところが難しいところだと思いました。







「なぜ?」「本当に?」と問い、考え続ける哲学的姿勢を育む環境づくりというのは、

自分も目指していきたいところなのですが、


その環境づくりのヒントが盛りだくさんの映画でした!!



「子ども」「哲学」「教育」というキーワードに引っかかる人にはすっごくおすすめです☆


最近、“観”という言葉を大切にしている気がします。


観とは、自分なりのモノの見方、考え方のこと。


たとえば、教育において何を持って子どもの望ましい発達とするか


ということについては、これが正しいんだ!というような正解は存在しないため、

“自分はこう考える”という自分なりの見方を持つことが必要になってきます。


このように正解のない事象についての自分なりの答えのようなものを“観”と考えているのですが、


この“観”について意識するきっかけになったのが、今年の4月あたりのこと。


大学での2年間で受けた講義や読んだ本について振り返ってみたところ、

かなり多くの部分が抜けてる!ということでした。








大学の講義に関しては、ほとんど何をやったかすら記憶がない。


本についても、かなり多くの読書を積み上げてきたつもりだったのですが、

当時「なるほど!」と思ったことでも、

今となっては「何が書いてあったんだっけ?」と曖昧になっている。



もちろん残っている部分も多くあったのですが、

あまりの剥落具合にショックを受けたのと同時に、

「何でだろう?」ということを考えてみました。









その結果、一番「これだ!」と思ったのは、


自分に引き付けられていない


ということ。


大学の講義で言えば、“その学問の世界ではそう言われている”というように、

その学問の枠組みの中で考えていた気がするし、


読書においても、本に書かれていることを自分が持つ現実にまで落とし込むところまでいかず、

その本に書かれていることをそのままに受け取ってしまうことが多かったために、

多くの部分が時間とともに抜けていってしまったのだと思います。



講義や本の「情報」を「観(自分なりのモノの見方、考え方)」に変えていくプロセスが不十分だったのではないかと。




そこで、当時「こうしていこう!」と答えを出したのが、


自分が持つ問題意識に引き付けて考える


ということ。


自分が持つ“問い”について考えるための情報として講義や本を捉え、その材料をもとに自分なりの答えをつくりだしていく。


そうすることで、一つ一つの講義や本をより自分のものとしていこうと考えました。




最近では、それを重点に意識して取り組んでいるのですが、


それを意識することで、講義を受ける、本を読むということが、

受け身的なものから、能動的なものに変わるので、


より学習が楽しくなったし、自分のものとして残るものも多くなったのでは?と感覚的に感じています。







今、自分が磨いていきたいと思う“観”は次の4つ。


教育観

現代社会観

人間観

キャリア観



教育は、“現代社会”というフィールドに立った“人間”の発達を支援する営みなので、


教育観をつくっていくためには、

まず現代社会がどういった社会なのか

人間をどういった存在だと捉えるのか


というところの観をつくっていくことが必要だと思います。


現代社会観、人間観については主にドラッカーから、

教育観については、教育の専門書、教育現場での体験から



ついつい意識していないと受け身的にただ情報を受け取るとなってしまいがちですが、

しっかりとその「情報」を「観」に結びつけられるように学習していけたらと思います☆










学校のクラスにはたいていルールがあるものだと思います。


給食をたべているときはおしゃべりをしてはいけない

みんながそろうまで掃除をはじめてはいけない


などなど


それらはクラスをより効率的に運営していく・子どもたちに規則正しい生活を身につけてもらうために必要なもの。


しかし、ルールを使う際には気をつけてつかわなければならないと思うことがありました。









************************


昨日のことでした。


僕は、毎週水曜日、ある小学校にがやっこ先生としてお世話になっていて、そのときは登下校を児童と一緒にするのですが、下校でのこと。




5人ほどの児童と一緒に帰っていたのですが、その中の一人(Aちゃん)が「のどが渇いた。暑くて頭くらくらする。」と言い出だしました。




その子の様子を見ると顔は真っ白で、全身汗びっしょ状態。


ともすると熱中症になりかねないという状態だったのですが、その子は水筒を持ってくるのを忘れたから家まで我慢しなきゃいけないと言います。





そこで、ちょっとこれは危険かもしれないと思ったので、他の子に「Aちゃん苦しそうだから、水筒のお茶わけてあげて」と申し出ました。


しかし、他の子たちは「先生が人のお茶をもらっちゃいけないといっていたから、あげたいけどあげられない。」と言います。


「でもAちゃんすっごくつらそうだよ!」と言っても、


「先生が決めたことだからダメなんだ」と。。。



僕はてっきり「いいよー!」という答えが返ってくるもんだと思っていたので、想定外の答えにびっくりしたのですが、


しかし、ここはAちゃんの健康が一番優先のものだったため、「三浦先生が許すから、お茶わけてあげて!」と

自分が許可を出してお茶をわけてもらうことにしました。



結局Aちゃんは、大丈夫だったのですが、子どもたちの発言・行動は自分にとっては衝撃的でした。







***********************






この出来事で自分が感じたのは、ルールで子どもたちをコントロールしようとすると子どもが自分で考えて判断・行動する力が育たないのではないかということ。


“なんでそうするのか”を考えることなしに、「先生が言ったこと・決めたこと」を基準に判断・行動してしまう。


おそらく「人のお茶をもらってはいけない」というルールは、自分のことは自分でやる(自分が飲むお茶は自分で持ってくる)ことを育むことをねらいとしてつくったものだと思うのですが、

このときの状況においては、「先生の言ったことだから正しいんだ!守んなきゃだめなんだ!」と自分で考えるのを放棄している・思考停止に陥っているように見えました。










何が正しいかは状況に応じて変わってくるものだと思います。




「先生の言うこと」もある状況においては正しいかもしれないけど、違う状況においては間違っているのかもしれない。


だから、「先生が言うことは絶対だ!」というような価値観を植え付けてしまうのは危険だし、


クラスをより効率的に運営していく・子どもたちに規則正しい生活をしてもらうためにルールを創るにしても、


・先生はどうしてそのルールをつくろうと思う・必要だと思うのか

・そのルールをつくることでのねらい

・そのルールは絶対的に正しいものではないこと


等をしっかり伝えていく必要がある。


でなければ、無思考で「先生の言ったこと・決めたこと」が基準となり、自分で考えて、判断・行動する力を育めないんじゃないかなあと


ルールの難しさについてふと考えました。




正直なところ、大学1,2年生のとき(今でも?)は大学の講義を聞いてもまったくもってピンときませんでした。


学校教育課程なので、教育学についての講義が中心となるわけですが、何か違和感があるというか、何か腑に落ちない。



主に次の2つの点で教育学に対して疑問を持っていました。




①教育の前提となっているものが古いのではないか?


学校というものは、社会の中の一つの機能であることから、学校外の社会の変化に応じてその役割や責任は変化してくるものだと思います。


ですが、自分が感じていたのは、既存の教育学は一昔前の社会の前提をもとに積み上げられているのではないか?ということ。


例えば、良い学校→良い就職→良い人生というような価値観だったり、特に印象に残っているのは、「学力」についての議論。


大学の講義では「学力」というものを無条件に上げるべきものという前提のもと、議論を進めていたことが多かったように思うのですが、


自分としては、そもそも「学力」とは何か、どういった性質を持つものなのかということだったり、現代社会において本当に「学力」を伸ばすことは必要なことなのかということが気になってしまい、


講義については何を言っているのかよくわかりませんでした。



特に自分の場合は、1年生の時にインターンをしており、社会の変化を肌で感じていたため、社会実態とのギャップに違和感を感じることが多かったのかもしれません。





②そもそもの教育目的をどう考えているのか?


教育は何のためにあるのか?

どういう方向性を持って教育をするのか?


という疑問は高校生の頃から持っていました。


それへの関心から学校教育課程に入ったということもあるのですが、


大学の講義では、そういったそもそもの教育の目的は何なのか?という根本に触れるものはほとんどなかったように思います。


上記に挙げたように、「学力」については、何で学力を伸ばすことが必要なの?という問いを考えることなしに議論が進められていたり、


教科学習においても、国によって与えられた教科目標をいかに達成するかという視点だけで、話されていたり、


そもそもの教育目的について疑問を持っていた自分としては、何か腑に落ちないなあというのがほとんどでした。








そんな感じで、教育学に対して違和感のようなものを持っていた自分ですが、


最近読んだ本で「なるほど!」と思ったことがあったので紹介します。



教育学 (ヒューマニティーズ)/広田 照幸
¥1,365
Amazon.co.jp

この本は、教育社会学者の広田照幸さんという方が書いた本で、教育学について俯瞰的に書かれています。


教育学の守備範囲

教育学の系譜

教育学の可能性、限界

教育学の危うさ

などなどについて


教育学の手引きのような本です。




自分が日ごろ教育学について感じていたことを言語化してくれるお気に入りの本なのですが、

その中でも、第四章 「この世界に教育がなしうること~教育学の未来はどうなるのか?~」

の記述が印象的だったので引用します。










以下要約


************************


教育目的が迷走している。


近代教育学は、どこかに究極の原理を据え、そこから、あるべき人間やあるべき社会の方向を導き出し、それに向けた教育の目的や方法・内容を決めていく、といった形で自らの議論を正当化してきた。


たとえば、近代初期のコメニウスにとっての究極の原理は、「神」であったし、近代国民国家の興隆期には、「国民」の形成が教育システムの重要な社会的使命であった。



しかし、1980年代から1990年代にかけて広がったポストモダン論は、「教育の正当性や方向性を根拠づける、最終的な足場はない。」ということを明るみに出した。


あらゆる教育学的規範は、恣意的な言明だということになった。


かくして、教育学の現代的使命やあるべき方向(教育の目的)をそれなりに語ってきたはずの教育学が、ここにきて、確固たる議論の足場を失った状態に陥ったのである。




**********************








ここに書いたとおり、教育を考える上での確固たる足場がないというのが、現状だと思います。


子どもたちにテストでいい点数をとらせることが本当にいいことなのかはわからない。


どのような発達をすれば、どんな力を持っていれば、社会で生き抜いていけるのかもわからない。




教育学は、これまである程度長い歴史の中で積み上げられてきたものなのですが、


やはりこの教育学というものも絶対的なものではないし、

解明しつくせない存在である人間を対象にするものであることから、多くの部分で“危うさ”を持ったものだと思います。




で、結局何が言いたいのかというと、

自分にとって教育学は、あくまでも自分の教育“観”を磨くための材料であると捉えていきたいいうこと。


教育学で言われていることをそのまま鵜呑みにするのではなく、


こうすれば大丈夫!というような絶対的な正解がない中で、

自分が見る現実と自分自身ができることを擦り合わせながら、自分なりの答えを導いていくための材料として教育学を使っていきたいなあということです。







1,2年生のときは、教育学の本を読んでも面白いなあと思ったことはほとんどありませんでしたが、


最近、自分なりの見方ができるようになるために読むんだ!と捉えるようになってからは、

教育書を楽しんで読むことができるようになりました♪




恥ずかしながら、まだまだ入門書レベルのものを数冊読むにとどまっていますが、

一つ一つをじっくり自分のものにしていって、教育観を磨いていけたらと思います☆