教育の目的・どういった方向性を持って教育していくのかということについて関心があります。
既存の前提となっていた価値観が揺らいでいる21世紀。
良い成績→良い学校→良い就職→良い人生というような望ましいとされていたことが、「本当にそうなのか?」と問われている今の時代において、教育はどういった方向性を持って行っていけばいいのか。
生徒の成績を上げることを目指せばよいのか
先生の言うことを聞けるようになることを目指していけばいいのか
正直自分でもよくわかならいところがたくさんで、
教育は何を持って成果とするんだろう?ということはよく考えることです。
そこで、今回の記事では、そのような教育目的や方向性を考えていくにあたって、参考になりそうな考え方を見つけたので紹介しようと思います。
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一身独立して一国独立する
これは一万円札の人・「学問のすすめ」を書いたことで有名であろう福沢諭吉の言葉であり、福沢が考える教育のあり方、国家のあり方を考えていく上で重要な考え方です。
近代において、教育は国家の発展の手段として用いられてきました。
産業を発展させるために、それに必要な資質を満たした人材を育てる
国民国家を形成していくために、国民としての共通の価値観、文化を身につけさせる
このように国家主導によって方向づけれた方向にそぐう人材を育成する手段として、
「全体」(国家)の側から「個」(個人)を見る視線によって教育を考えてきました。
しかし、福沢は逆のベクトルを持っていたと言えます。
一身独立して一国独立する
という言葉もあるように、国家独立のための必須の要件とはあらかじめ国家の側で準備できるものではなく、
むしろ国家が個々に独立した国民によって構成されることこそが肝心だと考え、
それゆえに教育の第一義的役割を個々人の独立支援と捉えていた。
「個」(個人)の側から「全体」(国家)を観る視線によって教育を捉え、“個”の独立を起点として、その個々人の智徳の発達の延長線上に国家の文明のありようを認めていました。
“個々人の独立”を教育の方向性として捉え、その独立した個人が互いに交際し、智徳を発達させていくことが国家の発展につながると考えていたと言えると思います。
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近代の学校教育においては、主に前者が採用されてきたわけですが、
僕自身としては、後者の福沢の考えの方がしっくりきます。
なぜなら次の2つの点から。
一つは、国家の方向性や政策が必ずしも正しいというわけではないと考えるから。
原発問題や年金問題が起こっていることからわかるとおり、
国がやること=正しいというのは、考えづらいと思います。
むしろ、政治というものが機能不全に陥っているというのが現状。
そういった時代にあっては、国家に帰属した、国家の方向性に見合う人材を育成していくよりは、
国家に依存せず、批評的、能動的に社会に働きかけられる“独立した個人”を育てていくことが重要なのではと考えます。
2つは、一人ひとり発達、生き方のゴールやペースが違うということから。
人間というのは、
一人ひとり生まれた環境や身体の大きさなどのスタート地点が違うとともに、
どう生きていきたいかといったゴールや進むペースというのも違う多様性を持った存在だと思います。
ですが、既存の教育ではみんな同じ方向性を持って、同じことを、同じように、同じペースでこなしていくことが求められるため、国家が示した方向性にあう人はいいかもしれませんが、当然合わない人も出てきて、
それが個々人の可能性を制限しているのではないか。
あくまでも教育は、1人ひとりが自分のゴールを自分のペースで進んでいくことを支援するためにあるべきで、
国家の側から必要な要件を与え、それを身につけさせるというのは、違和感が感じるところです。
以上、福沢の教育観と自分の教育観を少しですが、書いてみました。
福沢の教育観は共感するところが多くて、しかもドラッカーの思想と共通するところがあるので、
今後もっともっと深めていけたらと思います。
上記のは、「学問のすすめ」という本を読んで書いたものなのですが、この本は現代にも通じる普遍的な原理が多く詰まっているおもしろい本なので、すっごくおすすめです☆
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