独航録 ~ N予備校講師 中久喜 匠太郎

独航録 ~ N予備校講師 中久喜 匠太郎

N予備校英文読解講師中久喜のちょっと真面目なブログです。
生徒向けのブログはこちらn-nakakuki.seesaa.net/

【著書案内】

私の第二作「中久喜匠太郎の生授業! 英語長文ベーシック」が発売されました。

英語がどうにもこうにも苦手で仕方ないという人のための「世界一やさしい」英語長文の本です。

収録した14の問題のスタートはなんと高校入試レベル。そこから少しずつステップアップして最終的にセンター試験レベルに到達できるように工夫しました。

そして何より一番力を入れたのが「面白い文章を探すこと」です。読んでいてクスッと笑える、思わずへぇと言ってしまう、そんな英語長文を一生懸命集めました。例えば「放送禁止用語を叫ぼう!」とか「グルテンフリーブームに物申す」などなど。楽しんで読んでいただきたいです。

解説もあまりかたくならないように、普段の授業の軽快なノリが再現できるように書きました。参考書に向かうというよりは読み物を読むくらいの気軽さで読んでいただけるように努力しました。大学受験生のみならず、大学生、社会人の方にも読んでいただきたいです。

出版社のぺージです↓
https://www.kadokawa.co.jp/product/321612000666/
Amebaでブログを始めよう!
桜田大臣の「がっかり」発言をめぐる論調が「前後の発言も踏まえたらそんなに悪いことは言っていない」という流れになっていることについて、言葉を生業としている人間として一言。
 
中国の「鶏肋の戒め」はご存知ですか。昔、三国時代の魏の曹操はある戦いに苦戦していて、進むか退くかを日々思案していた。ある日曹操が夕食を摂っている時に、武将の夏侯惇がやってきて「明日の軍令をうかがいにきました」。ちょうど鶏肉をかじっていた曹操は何の気なしに「鶏肋、鶏肋か…」とつぶやいた。夏侯惇はそれを真に受けて、「か、かしこまりました」と武将の部屋に戻っていった。そこには文官の楊修が居た。
 
夏侯惇「殿が言うには、明日は『鶏肋』らしい。しかし、いったいどういう意味なのだろうか…」
楊修「なるほど、わかりました。ニワトリの骨は肉もなく味もない。つまり、この戦いにはもう得るものはない、とおっしゃられているのです。つまりこれは『退却せよ』との軍令でしょう。」
夏侯惇「なるほど、そういうことか。さすが楊修殿。すぐに全軍に退却の指示を出そう。」
 
その日の夜、何となく目が覚めた曹操は陣中を散歩しようと外に出てびっくり仰天。皆があわただしく退却の準備をしているではありませんか。「誰が退却の命令など出した!」ことの経緯を質した結果、楊修の深読みが原因だと判断した曹操は、その場で楊修を処刑してしまった。
 
この故事から学ぶべきことはいろいろあると思うのだけど、「前後から切り離された言葉は、言葉の用を成さない」という教訓は大切でしょうね。「鶏肋」などという如何様にも解釈できる言葉を発した曹操にも、その真意を問わずにそのまま持ち帰った夏侯惇にも、それを牽強付会に解釈した楊修にも、同じくらい問題がある。ちょっとシンプルにまとめてしまうと「誤解を招く言葉はちゃんとその前後を踏まえて解釈しなさい」となるでしょう。
 
さて、それでは桜田大臣の「がっかり」は「誤解を招く」言葉だろうか。僕の答えは簡単。一ミリも誤解を生まない言葉だ。前後の文脈によって意味が変わる言葉ではない。文脈など関係なく、大病を患った人に対して発する言葉では断じてない。この大臣が選手をメダル獲得のためのコマとしてしか見ていないことがありありとわかる言葉だ。「この発言の前ではちゃんと病気を心配しているから、この発言は大目に見ていいんじゃないか」という論調になっているけど、もしこれが大目に見られるならば、こういうのもOKになりますよ。
 
「君、試合に負けたんだってね。そうかあ~よく頑張ったのになあ。いやあがっかりだよ。いや、それにしてもよく頑張った!」
 
僕は言葉の「受け手のあり方と責任」について日々考えているけれど、この件は完全に「発する側の問題」だ。学ぶべきことなんて何もない。一つだけあるとしたら「話し言葉はその人を裏切らない」ということでしょう。書き言葉はいくらでもつくれる。でも話し言葉には、いくら隠そうとしてもその人が顕れる。
 

  大好きな作家&映画監督の森達也さんが築地本願寺で行った講演会に行ってきた。台風が関東にも大きな影響を与えるのではないかという気象状況のさなかのことだった。

 

  家を出る時には台風特有の突発的な強い風がときたま吹いていたくらいで、雨はさほどのものでもなかった。15時半に講演会が終わって築地の空を仰いでも、そこそこ明るい曇り空とそこそこ以下にしか強くない雨。深夜には風雨が強まったらしいけれど、私は何も気づかずにぐうぐう眠っていた。

 

  築地本願寺の厳かな本堂に椅子を並べて開催されたその講演会は、森さんの数々の作品と同じく素晴らしいものだった。だけど、盛況だったと言うにはややためらいを感じる。イスを多く並べすぎたんだ、という擁護論も口にしながら伏し目になってしまうくらいの空席はあった。

 

  そりゃ台風が近づいてるさなかだ、さもありなん、と言いたいところだけど、あながち台風のせいだけだとは言えないだろう。今日ほどリベラル系の論客が呼吸をしづらい時節はない。

 

  そんな講演会の中で知った言葉がある。「リスク」と「ハザード」。対概念ではないけれど、対にしてとらえられるべき言葉だと思う。

 

  「環境リスク学」という学問分野の中での言葉らしい。例えば、「スズメバチに刺される」という悲劇についてこの言葉をあてはめれば、スズメバチに遭遇して刺される可能性がリスク。刺された後にもたらされる被害の大きさがハザード。森さんはハザードは「毒性」と解釈していた。

 

  「スズメバチに刺される」のハザードは言うまでもなく大きい。命に関わることにもなりかねない。しかし、リスクはどうだろう。私はこれまでスズメバチを何度も見たことはあるが刺されたことは一度もない。簡潔にまとめると、低リスク高ハザード。

 

  「蚊に刺される」はその逆の典型だろう。リスクは極めて高い。まさに今日、密室であるはずのカラオケでギターと歌の練習をしていたら何故か蚊に刺された。しかもくるぶし。骨ばったところほど刺されたら痒い。痒さと悔しさに苛まれながら、私はギターを弾いて歌いながらくるぶしを掻くという偉業を達成した。目撃者は残念ながらいない。そんなアクロバティックな練習をしているうちに、きれいさっぱり痒さは消えていた。蚊に刺されるハザードはまあその程度ということだ。

 

  他にもいろいろ分析してみよう。「交通事故に遭う」はリスクもハザードもそこそこ高いだろう。「航空機墜落事故に遭う」はリスクは極めて小さく、ハザードはでかい。スズメバチ以上だ。「浮気がバレる」のリスクはその人の管理能力次第、ハザードは甚大。「東日本大震災級の大津波が起こる」のハザードはとてつもなく大きい。しかし、リスクはよく形容されるように「1000年に一度」だ。誤解と語弊を恐れず言えば、1000年に一度しか起こらないのだ。

 

  1000年に一度」はリスクを表す言葉だ。それがなぜかハザードに読み替えられている。ここに人間の認識のたわみがある。「1000年に一度の津波」という言葉に誰もが無意識に「1000年に一度起こるとてつもなく大きく甚大な被害をもたらす津波」というハザードを補って解釈している。きっと私もそうだ。

 

  危機を経験した、または危機を感じている人間はリスクとハザードを容易に混同する。リスク×ハザードという掛け算を経て出てきた客観的な判断ではなく、ハザードの直感を頼って行動する。そこに政治も資本もつけこむ。  マリリン・マンソンは映画「ボウリング・フォー・コロンバイン」の中で乱射事件(1999)や同時多発テロ当時のアメリカ社会を「恐怖と消費の再生産」と形容していた。事件が起きる。恐怖が高まる。メディアがそれをさらに増幅させる。モノが売れる。また別の事件が起きる。

 

  仕方のないことといえばそれまでだ。人間はそれほど合理的な存在ではない。高いところが苦手な私は飛行機に乗るのがとにかく億劫だ。飛行機そのものは大好きなものだからなおさら始末が悪い。搭乗前にはしこたま呑んでドーピングしないと怖くて乗れたものではない。それでも離陸時には普段見向きもしない神様にひたすら無事を祈っている。「落っこちることなんてない」と頭ではわかっている。けれど、体がそれを無視する。ハザードの妄想ばかりが頭の中で暴走する。

 

  森さんの講演会が満杯にならなかったのはひょっとしたら、人々が台風のリスク×ハザードを過大評価したからなのかな、とか思ってみたりする。今日外出したら台風による突風に巻き込まれて体が宙を舞い、道路にたたきつけられたところに風で飛ばされた看板が直撃して意識を失い、豪雨に数時間打たれてひどい目にあうかもしれないから外出はやめておこう、と人々が考えたのかもしれない。いや、そんなことはないか。今のところ風は右向きだ。

 

 

20年近く前に仕事がなくてヒマで仕方なかった時に戯れで録った6曲入りオリジナル楽曲集「塚田ヘンドリックス」は、予想に反して驚くほど多くの人々からの「歌がすごい良かったよ!!」「歌こんなにうまいんだ、感動したよ!!」「今度うちのバンドでも歌ってよ」といった絶賛と好評を全く博さなかった。「ギターはいいよね」「ベースはいいよね」ドラム以外は私が弾いている。そして歌っている。「歌うまいね」は言うまでもなく「歌いいね」さえ一度も言われなかった。このときほど助詞の「は」が私の心を焼き鳥のハツよろしく串刺しにしたことはない。

 

それから時間が経って下手の横好きで始めたバンド活動でも、ライブの後の感想はだいたい「面白かった!」「MC良かったよ」「さすが話はうまいですね!」

 

まとめると、私は歌がうまくない。希望的観測を含めて言い直すと、うまくなかった。

 

死ぬまでに一度くらい「うまい」と言われたい。こんなピュアなモチベーションに動かされて、私は1年以上ボーカルスクールに通っている。

 

今の私の熟達レベルがどのあたりにあるのかはわからない。けれども、今の私に先生が毎回指導してくださることを集約すると「息を吸うときが勝負だ」…ここが今の私の一番の壁だ。吸うときに少しでも多く吸って、それと同時に息の通り道を広くして太い息を出せるようにする。

 

昔読んだボーカルトレーニングの本にも同様のことは書いていた。そのためにどうすればいいかは私なりに努力はしていた。常日頃横隔膜を下げる意識をしたり、陸上アスリート用の呼吸筋を鍛える道具を使ったり、私なりにいろいろやっていた。どう吸うべきか。そればかり考えていた。

 

先生の答えは実に簡潔で、私の拙い努力の根底を叩き壊す実に気持ちのいいものだった。

 

「吐き切れていないから吸えないんです。」

 

なるほど、肺は極限まで息を吐き切れば自然に元に戻ろうとする。その時に力むことなくたっぷりと新しい空気を取り入れることができる。中途半端に吐いた状態で吸うには自分の意識と筋力の補助が必要になる。その結果、力む。だからフルに空気を取り込めなくなる。

 

つまり、呼吸は「スーハー」ではなく「ハースー」なのだ。

 

「吐き切れていないから吸えない」

 

ちょっと一般化してみると、「outputがないからinputできない」

 

英語を使う機会がないから英語ができない

人と交わろうとしないから友達ができない

お金を使わないから貯まらない

調べないからわからない

愛さないから愛されない

 

こういうアナロジーにはたいてい落とし穴がある。「歌と英語ってそもそも同じなんですか?」「愛ってそんな単純じゃないですよ」という疑義は生じるべきだ。だけど、何だかそこそこ腑に落ちる。outputがないからinputできない。なるほど。ならば、出さねば。

 

というわけで、長らく放置していたブログを再開します。これはそれを宣言するためだけの記事です。ここが結論です。具体→抽象です。長々とおつき合いいただいてありがとうございました。

 

目詰まりも沈殿もひどいのでどんなものが出てくるかは私も皆目見当がつきません。断水後の水道水はえらく澱んでいます。それとたぶん同じです。このアナロジーは合ってます。自分が言うのですから。でも、出さねば腐ります。出せば何かが動きます。

 

output

 

 

尊敬する映画監督森達也氏の「FAKE」をようやく見に行きました。騒動後の佐村河内守氏に密着したドキュメント映画です。
 
5月に安田講堂で行われた水俣病の講演会に森監督の講演を聴きに行って、その場でこの映画がまもなく公開されることがアナウンスされていたのでずいぶん前から存在は知ってはいた。けれど生来の天邪鬼がここでも豪快に首をもたげて、「FAKE」公開後しばらくは森監督の前作「A」「A2」のDVDを何度も見直すという謎の時期を経て、ようやく心の準備が整ったので、今日見に行ってまいりました。
 
ちなみに「A」「A2」はオウム真理教の事件後の若い信者たちに密着した、日本のドキュメンタリー史に燦然と輝く名作です。見られる側から見た世界。個人的には「FAKE」より「A」「A2」をまず見てもらいたいと思う。何故かというと、「A」「A2」のほうがわかりやすいから。つまり「FAKE」はわからないから。でもその「わからなさ」こそが森監督が一番伝えたかったことなのだと個人的には思う。
 
「暗喩が通じない世界」「善か悪かの二元論に傾倒して、わかりづらいことを嫌う国になった」…5月の講演の時に「何故しばらく映画を撮っていなかったのか」という問いに対して森監督はこういう言葉で答えた。
 
結論にいたるスピードが重視される社会、またはパン喰い競争みたいに結論はもうそこにぶらさがっていてそれを拾うまでのスピードが重視される社会。そういうことを言いたいのではないかと私は解釈した。結論はあるものではない。つくるものだ。
 
信じることは難しい。愛するよりたぶんずっと難しい。そもそも難しいところに私達の脳のキャパシティをはるかに超える量の情報が日々流れ込んでいる。だから結局自分の信じたいものしか信じなくなる。それに沿わない情報に出会うと自動的に耳にフタが生える。賛成か反対か、善か悪か、という両極端に逃げ込む。そして信じるという言葉も行為も陳腐なものになる。「両極は概念であって、実在はしない。」森監督はこう断言していた。
 
私は年に数回福島浜通りの写真撮影を続けているが、原発について賛成か反対かと問われたら自信をもって「わからない」と答える。行けば行くほど、知れば知るほどわからなくなる。月は原始地球に大きな小惑星が衝突してできたという説が正しいかどうかと問われたら自信をもって「わからない」と答える。読めば読むほどわからなくなる。
 
信じるってのはジャンプすることだ。そのジャンプは勇気でもあるし放棄でもある。
 
 
 
 
皆さまにご報告です

私が在籍するN高校の課外授業「大学進学授業」が今週木曜日、7月14日午前10時より「N予備校」としてついに独立します。

ごく簡単に申し上げます。全授業の無料一般公開を開始いたします。「N予備校」のアプリさえDLしていただければ世界中の誰もがどこでも私達のコンテンツをお楽しみいだたけるようになります。

ドワンゴのスタッフ・エンジニアの方々と私達講師陣が一丸となって紡ぎあげてきた新しい未来を、ついに世に問うことができるようになりました。

やってみせます。動かしてみせます。閉塞と停滞の著しい教育の世界を変えてみせます。いつまでも進化を続けるシステムとどこまでも熱い講師陣の力で。

ニコニコ動画からも完全に独立します。私達講師の本気の授業、スタッフ・エンジニアの方々の本気の取り組みが誰でも無料でご覧いただけるようになります。

私達が提案する新しい教育のありかた、さらに言えば、ネット時代の中での新しい人間関係のありかたを、一人でも多くの人にお楽しみいだたきたいと思います。

写真は先週金曜日の私の授業です。最後に時間をいただいて僭越ながら私が「N予備校独立発表」をさせていただいたのですが、発表の瞬間ニコニコ動画が拍手の弾幕になりました。こんな経験はもうできないのではないかと思い、調子に乗ってスクショしました笑

この皆さまからの大きな期待に応えられるようにスタッフ・エンジニア・講師一同これからもどこまでも努力を続けていきます。どうぞN予備校のこれからにご期待ください!!!!




twitterだけは手を出さない!と誓っていたのですが、ネット・ICT教育に関わるようになってさすがにそれもいかがなものかと考え直して、重い腰を上げてアカウント作りました。

https://twitter.com/n_nakakuki

といってもあまりtwitterらしい使い方はしないと思います。主に生徒の皆さんへの連絡・メッセージ用としていろいろ発信していく予定です。
のんびり歩く二人組の警官を近所で最近よく見かけるなあと思っていたのだけど、ああなるほど伊勢志摩サミットの警備のためなのだな、と今日になってやっと気がついた。

この間見た二人組は世間話しながら、別の二人組は自販機でジュース買いながら、今日見た二人にいたっては雑貨屋の前で立ち止まり商品を食い入るように見つめてうれしそうに談笑していた。どんな話してるんだろうかと聞き耳立てながらしばらく尾行してみたのだけど、家とは反対の方向にのったりと曲がって歩いていったのであきらめて家に帰った。

警官を責めたいのではない。というか責められるいわれなんぞ警官にはない。汚い下町の飲み屋街を狙う奇特なテロリストなんて皆無だということは私を含む全区民が承知している。仮に爆弾テロの標的になったところでオバマはおろかジンバブエの大統領だって1ミリも困りはしない。行きつけの呑み屋が破壊されたこの界隈の酔っ払い(私含む)が困るだけだ。そういう意味ではテロというよりは兵糧攻めに近い。

まとめると。私の街は平和そのものだ。これを書いているまさに今、どこかでサラリーマン的な声の数名が万歳三唱をしている。平和なのです。はるか遠くで行われているサミットは肌感覚としては現実ではないのかもしれない。空間の中の現実の歪みというかなんというか。

「戦時中といっても大半は暇だった」という旨のことを安吾は何かの本で書いていた。確かにそうだ。「戦時中」という言葉からどうしても後の世の私たちは日々徴兵と徴用を受け、戦火と空襲に追われ逃げ惑う人々の姿を思い浮かべてしまう。けど365日四六時中そうだったわけではなさそうだ。時間が歪ませた現実というかなんというか。

現実って何なのかっていう定義の問題はめんどくさそうだし答えが出なさそうだから首を突っ込まずにおくけど、ひとはこの現実なるものを誤認しやすいというか誤認したがる動物なんだろうなあ。

自分が現実だと感じるものを現実と感じたがって、痛むことのできる痛みだけを痛んで、それがどんなに改悪されつつある歴史であっても、歴史イコール過去であると思いたがって。

大好きな作家が使っていた「膚接(ふせつ)」という言葉がそれ以来私の頭から離れない。安っぽく言い換えれば肌感覚、なのかなあ。自分の肌感覚は他の誰かから押しつけられるものではない。他の誰かの肌感覚は私達が押しつけるものではない。

警官の尾行を終えて家に帰ったら、見覚えのある国家元首達がテレビのニュースにずらり勢ぞろいしていた。そんな7つの作り笑顔なんてそっちのけで、私はうれしそうな警官の姿を思い出してにやにやしていた。膚接。いい言葉だなあ。





夕方に石神井川添いをジョギングしていたら茂みの中からぬるりとヘビが登場して、目の前を悠然と横断しはじめた。そのヘビの予想進路とこちらの右足の着地予想地点が完全に一致したもんだからたまったもんじゃない。寸前に左足でクリボーを必死によけるマリオみたいなジャンプをしてヘビを飛び越えて、家までBダッシュで一目散に逃げていった。

いろいろ新鮮だった。飛び越えられたことも、そのヘビがマムシではなくアオダイショウだと意外に冷静に判断していたことも、ヘビにビビるなんていう昭和な体験を久しぶりにできたことも、そうか5月の中旬というのはそういう季節なのかと体感できたことも。

まともに仕事を始めてからというもの私は季節を肌で感じたことがほとんどない。最高気温38度の真夏だって冷房の効いた教室の中なら快適なことこの上ないし、雪の降る朝だって電車に乗ってしまえばおじさん達(自分含む)の湿った熱気で夏ではないかと錯覚できる。

特にここ15年間は季節の変化に気づくことさえなかったような気がする。春夏秋冬なんていう時と風景のなだらかな変化を線的に優雅に示す言葉とはまるで無縁だった。川の石を順番に飛んで対岸に渡るみたいに、私の一年は春→真夏→真冬だった。「変化」ではない。点としての「移動」でしかなかった。ちょっと川の水に足をつけてみようとか、たまにゃ泳いでみようとか、週20コマ講義を持っているとそんな余裕はなかった。

そんな生活とは正反対の日々を送り始めてまだ2ヵ月足らず。季節の変化に一日単位で触れられることがうれしくてしかたない。

昔から石神井川は私のお気に入りの散歩・ジョギング・徘徊コースだ。が、昔はどちらかと言えば逃避先、非日常だった。たまにゃ走らないと太るわと思い立って走りに行ったり、山のような原稿をたくわえたパソコンの前から離れたくて夢遊病者みたいにふらふら歩いたり、そんな場所だった。

今はすっかり生活の一部だ。毎日のように歩くか走るかしている。スピードの差はあれ同じ風景に毎日触れているといろいろ新しい発見がある。川をおとずれる鳥の種類が4月のはじめからだいぶ変わってきたとか、新緑は本当に良い香りがするんだとか、虫は夕方よりも朝のほうが少ないとか、走っていってもエサに夢中のハトは寸前までどいてくれないとか。紅葉していない緑色のモミジを目にして、ほうモミジは春でも生えているのか、なんていうアホな発見に大喜びしたのは先々週ぐらいだったか。

変化していく自然の一部としての人間。そういう立場に自分を置くことができることにはどこまでも感謝しなければいけない。

「自」に対する「他」は人間であると無意識に限定し、そこから自然を無意識に排除していた、そんなエゴももうすぐ洗い流されるかもしれない。私⇔他人。私⇔自然。私が見る自然。自然が見る私。

千葉県の大原海岸をぶらりと訪れて、抜群の居酒屋嗅覚を駆使して発見した名店で大将と話しながら地酒と地魚をたらふくいただいたその帰り道。暮れた夕陽のわずかな残り火を浴びて水田がほのかに輝いていた。植えられたばかりの苗たちが風を受けてさわさわとやわらかい合唱を続ける。そうかこうやって時は紡がれていくのかと、酔った体全体でおもいっきり深呼吸してみた。



嫌いな言葉は?と問われたら私は「親友」と即答する。理由を述べないと確実に「中久喜は親友いないらしいよwww」「ひがみかよww」となるだろうから理由も言う。「友」に失礼極まりない言葉だからだ。


選ばれなかった人、もの、ことに対する視線とか、選ばれなかった人、もの、ことから見た視線。それが大切なのだというのは頭ではわかっていても、無理やり暗記させられた道徳の教科書みたいに、意外と実践できていない。その大切さを声高に語ればほんのり偽善が香り出す。


だから実践するしかないのだけど、やはり難しい。誰だって無意識にひなたに目が向くし、かわいい子は目で追うし(おい)、マジョリティの中にいれば安心するものだ。


写真のハウツー本には決まって「花の撮り方」のコツが載っているのだけど、だいたいは「良い光が当たっている花を選ぶ」「背景が整理されている花を選ぶ」「中心に置かない」などなど。撮り始めの頃はなるほどなるほどと得心してそれを忠実に守って撮っていたけれど、疑問はすぐにわいてきた。泥だらけの日陰の地面に落っこちて朽ちかけていても、花であることには変わりはないはずだ。


無意識の選別。差別との差はわずかでしかない。


3月の終わりに長年お世話になった代ゼミのある校舎に挨拶をしようと気楽に顔を出したら、ある職員さんに「よもや先生が代ゼミを棄てるとは思ってもいませんでした…」と慨嘆されて、私ははっとした。そんなつもりは全くなかった。私はドワンゴを選んだと思っていた。代ゼミを棄てたなどとは毫も思っていなかった。もちろんそれが表裏一体だということは頭ではわかっていたけれど、表ばかりを見ていて、裏側を慮ったことは移籍が決まってからただの一度もなかった。この時ばかりは自分の浅慮さに心から恥じ入った。カサコソと軽薄な音を立てて、私は校舎を逃げるように後にした。普段は温厚な職員さんの怒りが隠しきれないその言葉を、私は一生忘れることはない。


選ぶというのは本当に残酷な行為だ。棄てているんだから。


無意識に何かを選びとり、無意識に何かを棄てている。


そりゃ全部を選ぶことなんでできるわけはない。服だって記憶だって時には人だって棄てなければならない場合なんて生きてりゃいくらでもある。


でもだからこそ、選ぶことから離れて生きていくことができないからこそ、その重みは感じていなければと思う。


ほらこうやって言葉にすればするほど偽善臭くなってくる。だから私は明日もカメラかかえて地面ばかり見て歩くことにする。






たまには早起きしてやろうと5時に起きたはいいものの、慣れないことはするもんじゃない。7時に仕事しながら失神同然に寝落ちして、気づいた時には12時を回っていた。


早起きは三文の得とか言ったやつは誰だ。嘘つきは泥棒の始まりだ。


極端に走りたがる自分がいけないのはわかっている。5時起きなんて人生初じゃなかろうか。昼前に起きる生活が続いている中でそんな人生初のトライを試みるに至った自分の思考回路は、ようやく覚醒してきた今でもよくわかっていない。


毎日遅くに起きる生活にさすがに人間としての危機感を覚えていた一昨日、神のおぼしめしか何かのように朝8時に目が覚めた。久しぶりに浴びる朝日に導かれるように石神井川沿いを散歩した。いつもならば夕方、花という花を落として恨めし気に川面にうなだれる桜の木々と時折待ち構えている柱のような羽虫の群れの中を逃げるように歩くのだが、同じ道を歩いているとは思えないほど川も新緑も美しかった。カフェでモーニングなどという酔っ払いにはまるで縁のない偉業までやってのけて、人間としての地位を多少は回復できた気がした。


早起きはいいものだ。心の底からそう得心した。


そこまではいい。そこから何故5時に起きるという発想になるのか、誰か教えてほしい。


90分授業×24コマ/週の生活を卒業した私が今送っているこんな日々は、平和とニートの中間ぐらいのランクだろう。ややニートに寄っている。


新規事業とはいうものの今は授業の数もごくわずかで、基本的には家で種々の原稿をこなす日々だ。ただ私は筆の速さには自信があるので、その結果時間はたっぷり残る。それで5時起きでもしてみたくなったのだろうか。いや、飛躍にもほどがある。


もちろんこういう生活を自分で選択したのだから何の不満もないのだが、やはりいくぶんかのダメージを伴う。それを列挙してみよう。


・平日昼間に寝癖&汚いジャージで朝飯を喰いに行く自分の姿を客観視してみた。残念の極みだ。最近はジャージはやめた。次の目標は自炊。


・マンションの中で同じおばあちゃんに1日で3回会った。私へのあいさつと視線に込められたメッセージが「親しみ→疑念→あわれみ」と変化していった。おばあちゃん、これでも一応仕事はしてます。わかってください。


・宅急便の事務所が近所にあるので届け物はいつも朝一番9時に来るのだが、これまでは「いないから受け取れなかった」のが今は「起きられないから受け取れない」に変わった。それが宅急便にもばれたらしく、最近は昼前に来るようになった。


何よりも、平日夕方にこんな益体もない文をしたためて公開して、日々忙しいあなたから数分の時間を奪ったことがだめすぎる。というわけで退散します。またひきこもります。