楊修「なるほど、わかりました。ニワトリの骨は肉もなく味もない。つまり、この戦いにはもう得るものはない、とおっしゃられているのです。つまりこれは『退却せよ』との軍令でしょう。」
夏侯惇「なるほど、そういうことか。さすが楊修殿。すぐに全軍に退却の指示を出そう。」
大好きな作家&映画監督の森達也さんが築地本願寺で行った講演会に行ってきた。台風が関東にも大きな影響を与えるのではないかという気象状況のさなかのことだった。
家を出る時には台風特有の突発的な強い風がときたま吹いていたくらいで、雨はさほどのものでもなかった。15時半に講演会が終わって築地の空を仰いでも、そこそこ明るい曇り空とそこそこ以下にしか強くない雨。深夜には風雨が強まったらしいけれど、私は何も気づかずにぐうぐう眠っていた。
築地本願寺の厳かな本堂に椅子を並べて開催されたその講演会は、森さんの数々の作品と同じく素晴らしいものだった。だけど、盛況だったと言うにはややためらいを感じる。イスを多く並べすぎたんだ、という擁護論も口にしながら伏し目になってしまうくらいの空席はあった。
そりゃ台風が近づいてるさなかだ、さもありなん、と言いたいところだけど、あながち台風のせいだけだとは言えないだろう。今日ほどリベラル系の論客が呼吸をしづらい時節はない。
そんな講演会の中で知った言葉がある。「リスク」と「ハザード」。対概念ではないけれど、対にしてとらえられるべき言葉だと思う。
「環境リスク学」という学問分野の中での言葉らしい。例えば、「スズメバチに刺される」という悲劇についてこの言葉をあてはめれば、スズメバチに遭遇して刺される可能性がリスク。刺された後にもたらされる被害の大きさがハザード。森さんはハザードは「毒性」と解釈していた。
「スズメバチに刺される」のハザードは言うまでもなく大きい。命に関わることにもなりかねない。しかし、リスクはどうだろう。私はこれまでスズメバチを何度も見たことはあるが刺されたことは一度もない。簡潔にまとめると、低リスク高ハザード。
「蚊に刺される」はその逆の典型だろう。リスクは極めて高い。まさに今日、密室であるはずのカラオケでギターと歌の練習をしていたら何故か蚊に刺された。しかもくるぶし。骨ばったところほど刺されたら痒い。痒さと悔しさに苛まれながら、私はギターを弾いて歌いながらくるぶしを掻くという偉業を達成した。目撃者は残念ながらいない。そんなアクロバティックな練習をしているうちに、きれいさっぱり痒さは消えていた。蚊に刺されるハザードはまあその程度ということだ。
他にもいろいろ分析してみよう。「交通事故に遭う」はリスクもハザードもそこそこ高いだろう。「航空機墜落事故に遭う」はリスクは極めて小さく、ハザードはでかい。スズメバチ以上だ。「浮気がバレる」のリスクはその人の管理能力次第、ハザードは甚大。「東日本大震災級の大津波が起こる」のハザードはとてつもなく大きい。しかし、リスクはよく形容されるように「1000年に一度」だ。誤解と語弊を恐れず言えば、1000年に一度しか起こらないのだ。
「1000年に一度」はリスクを表す言葉だ。それがなぜかハザードに読み替えられている。ここに人間の認識のたわみがある。「1000年に一度の津波」という言葉に誰もが無意識に「1000年に一度起こるとてつもなく大きく甚大な被害をもたらす津波」というハザードを補って解釈している。きっと私もそうだ。
危機を経験した、または危機を感じている人間はリスクとハザードを容易に混同する。リスク×ハザードという掛け算を経て出てきた客観的な判断ではなく、ハザードの直感を頼って行動する。そこに政治も資本もつけこむ。 マリリン・マンソンは映画「ボウリング・フォー・コロンバイン」の中で乱射事件(1999年)や同時多発テロ当時のアメリカ社会を「恐怖と消費の再生産」と形容していた。事件が起きる。恐怖が高まる。メディアがそれをさらに増幅させる。モノが売れる。また別の事件が起きる。
仕方のないことといえばそれまでだ。人間はそれほど合理的な存在ではない。高いところが苦手な私は飛行機に乗るのがとにかく億劫だ。飛行機そのものは大好きなものだからなおさら始末が悪い。搭乗前にはしこたま呑んでドーピングしないと怖くて乗れたものではない。それでも離陸時には普段見向きもしない神様にひたすら無事を祈っている。「落っこちることなんてない」と頭ではわかっている。けれど、体がそれを無視する。ハザードの妄想ばかりが頭の中で暴走する。
森さんの講演会が満杯にならなかったのはひょっとしたら、人々が台風のリスク×ハザードを過大評価したからなのかな、とか思ってみたりする。今日外出したら台風による突風に巻き込まれて体が宙を舞い、道路にたたきつけられたところに風で飛ばされた看板が直撃して意識を失い、豪雨に数時間打たれてひどい目にあうかもしれないから外出はやめておこう、と人々が考えたのかもしれない。いや、そんなことはないか。今のところ風は右向きだ。
20年近く前に仕事がなくてヒマで仕方なかった時に戯れで録った6曲入りオリジナル楽曲集「塚田ヘンドリックス」は、予想に反して驚くほど多くの人々からの「歌がすごい良かったよ!!」「歌こんなにうまいんだ、感動したよ!!」「今度うちのバンドでも歌ってよ」といった絶賛と好評を全く博さなかった。「ギターはいいよね」「ベースはいいよね」ドラム以外は私が弾いている。そして歌っている。「歌うまいね」は言うまでもなく「歌いいね」さえ一度も言われなかった。このときほど助詞の「は」が私の心を焼き鳥のハツよろしく串刺しにしたことはない。
それから時間が経って下手の横好きで始めたバンド活動でも、ライブの後の感想はだいたい「面白かった!」「MC良かったよ」「さすが話はうまいですね!」
まとめると、私は歌がうまくない。希望的観測を含めて言い直すと、うまくなかった。
死ぬまでに一度くらい「うまい」と言われたい。こんなピュアなモチベーションに動かされて、私は1年以上ボーカルスクールに通っている。
今の私の熟達レベルがどのあたりにあるのかはわからない。けれども、今の私に先生が毎回指導してくださることを集約すると「息を吸うときが勝負だ」…ここが今の私の一番の壁だ。吸うときに少しでも多く吸って、それと同時に息の通り道を広くして太い息を出せるようにする。
昔読んだボーカルトレーニングの本にも同様のことは書いていた。そのためにどうすればいいかは私なりに努力はしていた。常日頃横隔膜を下げる意識をしたり、陸上アスリート用の呼吸筋を鍛える道具を使ったり、私なりにいろいろやっていた。どう吸うべきか。そればかり考えていた。
先生の答えは実に簡潔で、私の拙い努力の根底を叩き壊す実に気持ちのいいものだった。
「吐き切れていないから吸えないんです。」
なるほど、肺は極限まで息を吐き切れば自然に元に戻ろうとする。その時に力むことなくたっぷりと新しい空気を取り入れることができる。中途半端に吐いた状態で吸うには自分の意識と筋力の補助が必要になる。その結果、力む。だからフルに空気を取り込めなくなる。
つまり、呼吸は「スーハー」ではなく「ハースー」なのだ。
「吐き切れていないから吸えない」
ちょっと一般化してみると、「outputがないからinputできない」
英語を使う機会がないから英語ができない
人と交わろうとしないから友達ができない
お金を使わないから貯まらない
調べないからわからない
愛さないから愛されない
こういうアナロジーにはたいてい落とし穴がある。「歌と英語ってそもそも同じなんですか?」「愛ってそんな単純じゃないですよ」という疑義は生じるべきだ。だけど、何だかそこそこ腑に落ちる。outputがないからinputできない。なるほど。ならば、出さねば。
というわけで、長らく放置していたブログを再開します。これはそれを宣言するためだけの記事です。ここが結論です。具体→抽象です。長々とおつき合いいただいてありがとうございました。
目詰まりも沈殿もひどいのでどんなものが出てくるかは私も皆目見当がつきません。断水後の水道水はえらく澱んでいます。それとたぶん同じです。このアナロジーは合ってます。自分が言うのですから。でも、出さねば腐ります。出せば何かが動きます。
output。
嫌いな言葉は?と問われたら私は「親友」と即答する。理由を述べないと確実に「中久喜は親友いないらしいよwww」「ひがみかよww」となるだろうから理由も言う。「友」に失礼極まりない言葉だからだ。
選ばれなかった人、もの、ことに対する視線とか、選ばれなかった人、もの、ことから見た視線。それが大切なのだというのは頭ではわかっていても、無理やり暗記させられた道徳の教科書みたいに、意外と実践できていない。その大切さを声高に語ればほんのり偽善が香り出す。
だから実践するしかないのだけど、やはり難しい。誰だって無意識にひなたに目が向くし、かわいい子は目で追うし(おい)、マジョリティの中にいれば安心するものだ。
写真のハウツー本には決まって「花の撮り方」のコツが載っているのだけど、だいたいは「良い光が当たっている花を選ぶ」「背景が整理されている花を選ぶ」「中心に置かない」などなど。撮り始めの頃はなるほどなるほどと得心してそれを忠実に守って撮っていたけれど、疑問はすぐにわいてきた。泥だらけの日陰の地面に落っこちて朽ちかけていても、花であることには変わりはないはずだ。
無意識の選別。差別との差はわずかでしかない。
3月の終わりに長年お世話になった代ゼミのある校舎に挨拶をしようと気楽に顔を出したら、ある職員さんに「よもや先生が代ゼミを棄てるとは思ってもいませんでした…」と慨嘆されて、私ははっとした。そんなつもりは全くなかった。私はドワンゴを選んだと思っていた。代ゼミを棄てたなどとは毫も思っていなかった。もちろんそれが表裏一体だということは頭ではわかっていたけれど、表ばかりを見ていて、裏側を慮ったことは移籍が決まってからただの一度もなかった。この時ばかりは自分の浅慮さに心から恥じ入った。カサコソと軽薄な音を立てて、私は校舎を逃げるように後にした。普段は温厚な職員さんの怒りが隠しきれないその言葉を、私は一生忘れることはない。
選ぶというのは本当に残酷な行為だ。棄てているんだから。
無意識に何かを選びとり、無意識に何かを棄てている。
そりゃ全部を選ぶことなんでできるわけはない。服だって記憶だって時には人だって棄てなければならない場合なんて生きてりゃいくらでもある。
でもだからこそ、選ぶことから離れて生きていくことができないからこそ、その重みは感じていなければと思う。
ほらこうやって言葉にすればするほど偽善臭くなってくる。だから私は明日もカメラかかえて地面ばかり見て歩くことにする。
たまには早起きしてやろうと5時に起きたはいいものの、慣れないことはするもんじゃない。7時に仕事しながら失神同然に寝落ちして、気づいた時には12時を回っていた。
早起きは三文の得とか言ったやつは誰だ。嘘つきは泥棒の始まりだ。
極端に走りたがる自分がいけないのはわかっている。5時起きなんて人生初じゃなかろうか。昼前に起きる生活が続いている中でそんな人生初のトライを試みるに至った自分の思考回路は、ようやく覚醒してきた今でもよくわかっていない。
毎日遅くに起きる生活にさすがに人間としての危機感を覚えていた一昨日、神のおぼしめしか何かのように朝8時に目が覚めた。久しぶりに浴びる朝日に導かれるように石神井川沿いを散歩した。いつもならば夕方、花という花を落として恨めし気に川面にうなだれる桜の木々と時折待ち構えている柱のような羽虫の群れの中を逃げるように歩くのだが、同じ道を歩いているとは思えないほど川も新緑も美しかった。カフェでモーニングなどという酔っ払いにはまるで縁のない偉業までやってのけて、人間としての地位を多少は回復できた気がした。
早起きはいいものだ。心の底からそう得心した。
そこまではいい。そこから何故5時に起きるという発想になるのか、誰か教えてほしい。
90分授業×24コマ/週の生活を卒業した私が今送っているこんな日々は、平和とニートの中間ぐらいのランクだろう。ややニートに寄っている。
新規事業とはいうものの今は授業の数もごくわずかで、基本的には家で種々の原稿をこなす日々だ。ただ私は筆の速さには自信があるので、その結果時間はたっぷり残る。それで5時起きでもしてみたくなったのだろうか。いや、飛躍にもほどがある。
もちろんこういう生活を自分で選択したのだから何の不満もないのだが、やはりいくぶんかのダメージを伴う。それを列挙してみよう。
・平日昼間に寝癖&汚いジャージで朝飯を喰いに行く自分の姿を客観視してみた。残念の極みだ。最近はジャージはやめた。次の目標は自炊。
・マンションの中で同じおばあちゃんに1日で3回会った。私へのあいさつと視線に込められたメッセージが「親しみ→疑念→あわれみ」と変化していった。おばあちゃん、これでも一応仕事はしてます。わかってください。
・宅急便の事務所が近所にあるので届け物はいつも朝一番9時に来るのだが、これまでは「いないから受け取れなかった」のが今は「起きられないから受け取れない」に変わった。それが宅急便にもばれたらしく、最近は昼前に来るようになった。
何よりも、平日夕方にこんな益体もない文をしたためて公開して、日々忙しいあなたから数分の時間を奪ったことがだめすぎる。というわけで退散します。またひきこもります。