へび | 独航録 ~ N予備校講師 中久喜 匠太郎

独航録 ~ N予備校講師 中久喜 匠太郎

N予備校英文読解講師中久喜のちょっと真面目なブログです。
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夕方に石神井川添いをジョギングしていたら茂みの中からぬるりとヘビが登場して、目の前を悠然と横断しはじめた。そのヘビの予想進路とこちらの右足の着地予想地点が完全に一致したもんだからたまったもんじゃない。寸前に左足でクリボーを必死によけるマリオみたいなジャンプをしてヘビを飛び越えて、家までBダッシュで一目散に逃げていった。

いろいろ新鮮だった。飛び越えられたことも、そのヘビがマムシではなくアオダイショウだと意外に冷静に判断していたことも、ヘビにビビるなんていう昭和な体験を久しぶりにできたことも、そうか5月の中旬というのはそういう季節なのかと体感できたことも。

まともに仕事を始めてからというもの私は季節を肌で感じたことがほとんどない。最高気温38度の真夏だって冷房の効いた教室の中なら快適なことこの上ないし、雪の降る朝だって電車に乗ってしまえばおじさん達(自分含む)の湿った熱気で夏ではないかと錯覚できる。

特にここ15年間は季節の変化に気づくことさえなかったような気がする。春夏秋冬なんていう時と風景のなだらかな変化を線的に優雅に示す言葉とはまるで無縁だった。川の石を順番に飛んで対岸に渡るみたいに、私の一年は春→真夏→真冬だった。「変化」ではない。点としての「移動」でしかなかった。ちょっと川の水に足をつけてみようとか、たまにゃ泳いでみようとか、週20コマ講義を持っているとそんな余裕はなかった。

そんな生活とは正反対の日々を送り始めてまだ2ヵ月足らず。季節の変化に一日単位で触れられることがうれしくてしかたない。

昔から石神井川は私のお気に入りの散歩・ジョギング・徘徊コースだ。が、昔はどちらかと言えば逃避先、非日常だった。たまにゃ走らないと太るわと思い立って走りに行ったり、山のような原稿をたくわえたパソコンの前から離れたくて夢遊病者みたいにふらふら歩いたり、そんな場所だった。

今はすっかり生活の一部だ。毎日のように歩くか走るかしている。スピードの差はあれ同じ風景に毎日触れているといろいろ新しい発見がある。川をおとずれる鳥の種類が4月のはじめからだいぶ変わってきたとか、新緑は本当に良い香りがするんだとか、虫は夕方よりも朝のほうが少ないとか、走っていってもエサに夢中のハトは寸前までどいてくれないとか。紅葉していない緑色のモミジを目にして、ほうモミジは春でも生えているのか、なんていうアホな発見に大喜びしたのは先々週ぐらいだったか。

変化していく自然の一部としての人間。そういう立場に自分を置くことができることにはどこまでも感謝しなければいけない。

「自」に対する「他」は人間であると無意識に限定し、そこから自然を無意識に排除していた、そんなエゴももうすぐ洗い流されるかもしれない。私⇔他人。私⇔自然。私が見る自然。自然が見る私。

千葉県の大原海岸をぶらりと訪れて、抜群の居酒屋嗅覚を駆使して発見した名店で大将と話しながら地酒と地魚をたらふくいただいたその帰り道。暮れた夕陽のわずかな残り火を浴びて水田がほのかに輝いていた。植えられたばかりの苗たちが風を受けてさわさわとやわらかい合唱を続ける。そうかこうやって時は紡がれていくのかと、酔った体全体でおもいっきり深呼吸してみた。