自己受容=「ありのままの自分でいい」って、どういうこと?(1) | ★こころノート★心の問題(心の悩み・心の傷・心の病)をいろいろな角度から考えるネットカウンセラーのブログ

★こころノート★心の問題(心の悩み・心の傷・心の病)をいろいろな角度から考えるネットカウンセラーのブログ

ネットカウンセリングサービス・ReLife-netを運営するカウンセラーのブログです。このカウンセラーがどういう思いでカウンセリングをしようとしているのか、どんなカウンセリングをしているのか、どういう心理学的な考え方をもっているのかを、自由に語っています。



「自己受容」という言葉は、心理学やカウンセリングではよく使いますが、日常ではあまり使わない言葉ですよね。

これに近い言葉で、「承認欲求」とか「自己肯定感」という言葉もあまり使われませんが、この2つは、感覚的なものとして、日常ではよくあるものです。

承認欲求は、「人から認めてもらいたい」という欲求ですね。

自己肯定感は、ポジティブ思考とほぼ同じです。

ところが、自己受容というのは、承認欲求を満たすことでも、自分のことをポジティブ思考的に考えることでもありません。

それゆえ、日常的には、なかなか得られない感覚だと思います。

なぜ得られにくいのかというと、私たちは常に承認欲求や自己肯定感を求めようとしているからです。

自分に自信がない人は、承認欲求が少ないのではなくて、「自分なんか人に認められるはずがない」という思いが強い分、逆に承認欲求を強くしているのです。

自己否定感の強い人は、「もっと自己肯定できる人間にならなくてはダメだ」と自分を責めています。

やたら、「俺を認めろ!」と承認欲求が強い人もいれば、ポジティブ思考を振りまいて、やたらと明るく振る舞おうとする人もいます。

常に承認欲求や自己肯定感を求めようとする私たちの行動には、どこか、無理をしている部分があるのですね。


先日から、このブログで「アドラー心理学」のことを話題にしていますが、ここで、ベストセラーとなった名著『嫌われる勇気』から、承認欲求、自己肯定感、自己受容に触れた箇所を引用しましょう。

この本は、ある青年と哲人(哲学者)との会話形式で書かれた本で、アドラー心理学の要点を非常に分かりやすく解説しています。


[引用]

青年 先生もご存じのはずです。いわゆる「承認欲求」ですよ。対人関係の悩みは、まさしくここに集約されます。われわれ人間は、常に他者からの承認を必要としながら生きている。相手が憎らしい「敵」ではないからこそ、その人からの承認がほしいのです!そう、わたしは両親から認めてほしかったのですよ!

哲人 わかりました。いまのお話について、アドラー心理学の大前提をお話しましょう。アドラー心理学では、他者から承認を求めることを否定します。

青年 承認欲求を否定する?

哲人 他者から承認される必要などありません。むしろ、承認を求めてはいけない。ここは強くいっておかねばなりません。

青年 いやいや、なにをおっしゃいます!承認欲求こそ、われわれ人間を突き動かす普遍的な欲求ではありませんか!

(『嫌われる勇気』p.132)


哲人 われわれは「わたし」という容れ物を捨てることもできないし、交換することもできない。しかし、大切なのは「与えられたものをどう使うか」です。「わたし」に対する見方を変え、いわば使い方を変えていくことです。

青年 それは、もっとポジティブになって自己肯定感を強く持て、何事も前向きに考えろ、ということですか?

哲人 ことさらポジティブになって自分を肯定する必要はありません。自己肯定ではなく、自己受容です。

青年 自己肯定ではない、自己受容?

哲人 ええ、この両者には明確な違いがあります。自己肯定とは、できもしないのに「わたしはできる」「わたしは強い」と、自らに暗示をかけることです。これは優越コンプレックス(注:あたかも自分が優れているかのように振る舞い、偽りの優越感に浸ること)にも結びつく発想であり、自らに嘘をつく生き方であるともいえます。

 一方の自己受容とは、仮にできないのだとしたら、その「できない自分」をありのままに受け入れ、できるようになるべく、前に進んでいくことです。自らに嘘をつくものではありません。

 もっとわかりやすくいえば、60点の自分に「今回はたまたま運が悪かっただけで、ほんとうの自分は100点なんだ」と言い聞かせるのが自己肯定です。それに対し、60点の自分をそのまま60点として受け入れた上で「100点に近づくにはどうしたらいいか」を考えるのが自己受容になります。

青年 仮に60点だったとしても、悲観する必要はないと?

哲人 もちろんです。欠点のない人間などいません。優越性の追求について説明するときにいいましたよね?人は誰しも「向上したいと思う状況」にいるのだと。
 逆にいうとこれは、100点満点の人間などひとりもいない、ということです。そこは積極的に認めていきましょう。

青年 ううむ、ポジティブなようにも聞こえるし、どこかネガティブな響きも持った話ですね。

哲人 そこでわたしは、「肯定的なあきらめ」という言葉を使っています。

青年 肯定的なあきらめ?

哲人 課題の分離もそうですが、「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極めるのです。われわれは「なにが与えられているか」について、変えることはできません。しかし、「与えられたものをどう使うか」については、自分の力によって変えていくことができます。だったら「変えられないもの」に注目するのではなく、「変えられるもの」に注目するしかないでしょう。私のいう自己受容とは、そういうことです。

青年 ・・・変えられるものと、変えられないもの。

哲人 ええ。交換不能なものを受け入れること。ありのままの「このわたし」を受け入れること。そして変えられるものについては、変えていく”勇気”を持つこと。それが自己受容です。

(同書p.227~229)



ここに引用した部分は、全部大切だと思いますが、自己受容については、特に最後の部分が重要です。

「変えられないもの」の代表は「過去」と「他人」です。

過去というのは、トラウマ体験(アドラー心理学では、トラウマを認めませんが・・・)などです。

「他人を変えることができない」というのは、「自分の思い通りに他人を変えることはできない」ということです。

「変えられるもの」というのは、いろいろ考え方はあると思いますが、1つには「何かに対する意味づけ」があると思います。

例えば、自分の性格。

自分には臆病な性格があり、それに嫌悪感を抱いていた状態の自分が自己受容すると、臆病の意味づけを変えることができます。

「臆病は反対に考えれば慎重な性格とも言える」と思えるようになるのです。

自分は臆病で勇気がないと思っていたのが、「臆病=慎重」と考えることで、「臆病な自分」でも恥じることなく堂々と人と交わっていけばいいのだという「勇気」を得ることができます。

引用の最後は、≪「変えられないもの」は、そのまま「それを持っている私」を受け入れ、「変えられるもの」は「変えていく」ことで、他者と交わっていく勇気を持つ≫という意味だと思います。

アドラーの言う自己受容というのは、「いたらない自分を慰める」だけのものではなくて、「いたらない自分」を受け入れた上で、「そこからどうしていくか」を考えるための手段です。


もともと自己受容の必要性は、「他者から認められない自分を自分が否定してしまう」ことからきています。

他者だけでなく、自分でも自分を認められない状態になっています。

自分や人から認められない「自分」を、「変えられないもの」は、「そのままの自分」として受け入れ、「変えられるもの」は「変える」ことで、「自分」の全てを受け入れることが自己受容です。

しかし、それは、再び他者との交わりの中で、自己受容感が確かなものかどうかを検証する必要があるのです。

他者と交わる中で、他者から認められなくても、自分で自己受容感が確かなものに感じられたら、それが自分への自信となっていきます。

嫌だった「臆病な自分」という考え方を修正して、「慎重な自分」として世に出たとき、たとえ「臆病者」と侮られても、もう気にすることがなかったら、その自己受容は本物だと言えるのです。

アドラーの言う「勇気」とは、そのようなことを意味しています。

アドラー心理学が、「所有の心理学」ではなくて、「使用の心理学」であると言われる1つの理由もここにあります。

自分に与えられたもの(生育歴、性格、心の傷など)を分析するのではなく、それをどう使うかに焦点を当てたものがアドラー心理学で、「与えられたものを使う」からには、自己受容という工程は欠かすことができないのです。


自己受容をテーマにした今回の記事は次回にも続きます。

次回は、自己受容の具体的な方法を中心にお話しします。



☆★ ReLife-netについて ★☆


ReLife‐netはメールカウンセリングを実施している心の悩み相談業です。


心の相談ならどんな小さなことでもご相談ください。
カウンセリングは2回まで無料となっています。



・「ご相談受付フォーム」(正式な相談を受付ける窓口です)



☆☆メールマガジン紹介ページ☆☆


【メンタル
ケアノートーセルフカウンセリング心の悩みに役立つ考え方】



★メルマガの登録はこちらからもできます★


☆☆ 他のブログ紹介 ☆☆

【ネットカウンセラーによる うつにサヨナラ応援ブログ】