1945年7月26日、日本への降伏を促す「ポツダム宣言」が出されたことを受けて、昭和天皇は東郷茂徳外相に以下の様に述べられたそうです。

 

 

「これで戦争を止める見通しがついたわけだね。それだけでもよしとしなければならないと思う。いろいろ議論の余地もあろうが、原則として受諾するほかはあるまい。受諾しないとすれば戦争を継続することになる。これ以上、国民を苦しめるわけにはいかない」と。

 

 

にもかかわらず、「最高戦争指導会議」ではこの「ポツダム宣言」に対して、取りあえず静観を決めてしまい、2日後の7月28日の記者会見の場では、鈴木貫太郎首相は「黙殺」と「我々は戦争完遂に邁進するのみ」といった受諾拒否の発言を公の場で行ってしまった。

 

その背景に、終戦間際においても尚、軍内部、特に陸軍を中心として、「本土決戦」を主張する参謀・司令官が多く、7月26日に米英中の三国によって発表された「ポツダム宣言」を受諾するという合意はぎりぎりまで形成されていなかったという事情があった。

 

それを反映した究極の形での事件が8月14日~15日未明に起ったクーデター事件の「宮城事件」だったわけです。

 

参考

 

 

第二次大戦終盤の時系列

■1945年2月 米英ソのヤルタ会談

第二次大戦終盤の1945年2月、連合国の米英ソ3国はソ連のクリミア半島ヤルタでソ連の対日参戦を促すための「ヤルタ会談」が開かれた。

 

 

これはソ連に対し「日ソ中立条約(41年4月に締結)」を破棄して、「ドイツ降伏の3カ月後以内に対日参戦する」ことを促すものであり、具体的には、ソ連の日本侵攻作戦として、米ソの間では「プロジェクト・フラ作戦」の合意が交わされた。

 

 

■45年3月10日などに行われた東京大空襲

3月10日、米空軍のB29爆撃機344機が午前0時8分、東京上空に飛来。1665トンの焼夷弾(しょういだん)で下町地区は火の海となり、死者10万人、焼失家屋27万戸、東京の全建物の4分の1が破壊されたといわれる。この日以降も4月13日、5月25日の大空襲を中心に、105回の空襲を受けた。(東京都は1990年に、3月10日を「東京都平和の日」と定めたそうです。)

 

■2月19日~3月27日 硫黄島の戦い Battle of Iwo Jima

小笠原諸島での死闘

 

■3月26日~ 米軍による沖縄上陸戦

 

■4月5日 ソ連が日ソ中立条約の不延長(事実上の破棄)を通告

 

■4月~7月 米ソの共同作戦「プロジェクト・フラ作戦」

具体的には昭和20年の4月~7月まで、アラスカ半島の先端のコールドベイにある米軍兵1500人が常駐する米軍基地で、ソ連軍から集めた1万2000人の将兵に対し、船舶輸送やレーダー、無線通信、ソナー、エンジニアリング、機雷除去などの習熟訓練の指導を米軍が行った。

 

ソ連には当時上陸用舟艇がなく、そうしたこともあり、日本陸軍はソ連の北海道への上陸をさほど心配していなかったが、作戦実行のために米軍は艦船を百隻以上をソ連軍に貸与し、それに乗ってソ連軍が北方領土や千島列島に上陸し日本に攻撃をしかけたのだそうです。

 

米軍はこの作戦のために1945年11月までに180隻をソ連に貸与することを計画。実際に、米軍からソ連に対して掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、フリゲート艦28隻、駆潜艇32隻など計149隻の艦船が無償貸与されて、その内の11隻を含む18隻(輸送船を含む)が北方領土上陸作戦に使用された。米国からの貸与艦船は、ソ連海軍によって千島列島のほか、南樺太や朝鮮半島北部の上陸作戦にも使われた。

 

プロジェクト・フラ - Wikipedia

 

 

 

■7月17日~8月2日のポツダム会談(米英ソの会談)

第二次世界大戦中の1945年7月17日から8月2日、ソ連占領地域となったドイツのベルリン郊外のポツダムで、英米ソの3カ国の首脳が集まって行われた、第二次世界大戦の戦後処理を決定するための会談。

 

第二次世界大戦の連合国「三大国」の首脳会談が行われたのはこれで3度目であり、最後となった。主に討議されたのはドイツをはじめとしたヨーロッパおよび中東の戦後処理であり、会議の最後にはポツダム協定が策定された。但し、会議の公式日程において対日問題は協議されていない、とある。
 

ポツダム会談 - Wikipedia

 


■7月26日のポツダム宣言(米英中の三国の連盟による宣言、後にソ連も加わった)

7月26日には日本政府に対して英国、米国、中華民国の政府首脳の連盟において、日本軍の無条件降伏などを求める全13か条で構成される宣言。

 

正式名称は、日本への降伏要求の最終宣言 (Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)。

 

宣言を発した各国の名をとって「米英支三国宣言」とも呼ばれる。ソ連は、後から加わり追認し、そして、日本政府は1945年8月14日にこの宣言を受諾し、9月2日に連合国への降伏文書調印・即時発効に至り、第二次世界大戦・太平洋戦争(大東亜戦争)は終結(日本の降伏)。

ポツダム宣言 - Wikipedia

 

 

■8月6日、9日 広島・長崎での原爆

当日の広島の様子を語っている文章を以前、拙ブログでご紹介していますので、そちらをご参照ください。

 

 

 

 

■8月8日午後5時ソ連の対日宣戦布告、8月9日の零時に攻撃開始

ソ連軍は連合国の要請により対日参戦し、満洲国、樺太南部、朝鮮半島、千島列島への侵攻を開始、日本軍と各地で戦闘になった。既に太平洋戦線の各地で米軍に敗退していた日本軍には、ソ連軍の進撃を防ぐ手段は無く、日本の降伏を決定付けた。

布告はモスクワ時間1945年8月8日午後5時(日本時間:午後11時)、ソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣から日本の佐藤尚武駐ソ連大使に知らされた。事態を知った佐藤大使は、東京の政府へ連絡しようとした。モロトフ外相は暗号を使用して東京へ連絡する事を許可した。そして佐藤大使はモスクワ中央電信局から日本の外務省本省に打電した。しかしモスクワ中央電信局は受理したにもかかわらず、日本電信局に送信しなかった。

「ソ連の宣戦布告に対する日本側の措置であるが、本来対ソ宣戦を決定すべき最高戦争指導会議がポツダム宣言受諾問題で紛糾していたため、対ソ宣戦問題を討議する余裕が無く、結局日本側からの対ソ宣戦は行われなかった」とあり、従って、「日本側の対ソ戦闘は、国家としての意思決定された戦闘ではなく、ソ連軍の攻撃に直面する現場での防衛行動という色合いが強かった
 

 

■8月18日~21日の日ソ間の占守島の戦い

1945年(昭和20年)8月18日~21日、千島列島東端の島でソ連労農赤軍と大日本帝国陸軍との間で「占守島の戦」という戦闘が行われている。

 

8月18日未明ソ連軍は占守島も先制攻撃、武装解除を停止していた日本軍守備隊と戦闘となり、占守島自体の戦闘は日本軍優勢に推移するものの、軍命により21日に日本軍が降伏して停戦が成立、23日に日本軍は武装解除された。捕虜となった日本兵はその後多くがポツダム宣言の趣旨に反する形で連行され、シベリアへ抑留された。

 

2月に米英ソ連の間で結ばれた秘密協定である「ヤルタ協定」ではソ連が日本との戦争に参戦する場合、戦後、北緯50度線以南の樺太南部(南樺太)などをソ連に返還し、千島列島については引き渡すことが決められていたそうです。

 

8月15日に米国のトルーマン大統領が、ソ連のスターリン首相に送った日本軍の降伏受け入れ分担に関する通知では、千島列島についてソ連の分担地域とは記されていなかったため、ソ連側は千島列島及び北海道北東部(釧路 - 留萌を結んだ直線以北「北海道スターリンライン」や「留釧の壁」と呼ばれた。)をソ連担当地区とすることを求め、米国も17日付の回答で北海道北東部については拒否したものの千島列島については同意。

占守島の戦い - Wikipedia

 

ポツダム宣言の受諾を日本側は、駐スイスおよびスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告、この事は翌8月15日に国民にラジオ放送を通じて発表(玉音放送)

 

終戦協定の調印が9月2日であることから、日本以外の国では、第二次世界大戦の終戦は9月2日となっており、中華民国(国民党軍の中国政府、現在の台湾)は9月3日、当時調印当日戦艦ミズーリ号にいなかった、というよりそもそも国すら出来てもいなかった中華人民共和国(共産党軍の現在の中国は49年10月1日に建国)なども9月2日を何故か対日戦勝記念日としている。

日本の降伏文書 - Wikiwand

 

中国、ロシア、アメリカで「対日戦勝記念日」が異なる理由(SBCr Online)

 

 

 

 

当時の一般の多くの国民が思っていた本音は、早く戦争が終わってほしい、というものであったでしょうし、実際にそのまま続けていたら、ひょっとして、3発目、4発目の原爆が使用されていたかもしれません。

 

しかし、そうしたことを(言えば非国民扱いされるわけで)当時の人々は口に出来ようはずがなかった。

 

負け戦さとなった太平洋戦争を、国民のために一刻も早く終わらせることを天皇も望んでおられたが、日本国民、特に戦争を継続しようという帝国陸軍の人々に対し、既に「新型兵器」を米国が開発し終わって、それを日本に2発落とされた、と日本人に信じさせる必要があったのかもしれません。

 

そうでもしないと、その当時大本営発表で国民を偽って戦争継続をしてしまった手前、帝国軍の敗戦を認めること、即ち終戦が容易にできない絶望的な状況に軍部は陥っていたのかもしれません。

 

日本側には(天皇陛下の真意を汲み)、連合国軍と協力して終戦にもっていくための協力者がいた、それが「昭和の藤原氏」近衛文麿であった、という推論を近現代史研究家の林千勝先生がなさっておられます。

 

広島で使用されたものが果たして本当に米国製ウラニウム型原爆「リトルボーイ」だったのか。

 

また、それは米軍の戦闘機B29から投下されたものだったのか。

 

近代史研究家の林千勝先生の、極めて興味深い内容 でかつ驚愕の推論が語られている動画です。

 

林千勝×水島総 第39回「ウォール街ともディールするトランプ、一方日本はグローバリスト特区に?」[桜R7/3/15] (原爆についてのお話は31分50秒あたりから)

 

 

下の写真は広島の爆心地から500メートルが離れた広島市袋町に勤務していたレントゲン技師の松重三男さん撮影のものです。
 
8月6日当日は病気療養のため、爆心地から7キロ離れた自宅におられたそうで、この写真は国連のサイト「A-Bomb  Terror」にも掲載されているようです。
 
1945年8月6日8時17分、当地の太陽高度は約34度。当時自宅にいた松重三男さんの目撃証言「ピカッと光った直後に火球が尾を引くように凄い速さで上昇するのを目撃」

この出来事の正体が何であったのか、それは歴史の闇の中にあります。

 

そしてこの恐ろしい出来事から今年で80年の月日が経ちました。

 

その日一瞬の中で亡くなった方々、苦しみながら数時間、数日後に亡くなった方々、その後の人生の長きにわたって後遺症に苦しめられた方々全ての方々の声なき声、切実な思いがいかなるものであったか、昨年、はっきりと私たちに届けられました。

 

被団協の代表の方の、昨年のノーベル平和賞授賞式での素晴らしいスピーチは本当に心に残るものでした。

 

ノーベル平和賞授賞式 日本被団協・田中代表委員がスピーチ

 

 

 

 

 

参考