1945年7月17日~8月2日、米英ソ連の3か国がベルリン郊外のポツダムに集まり、ヨーロッパの戦後処理と日本の降伏条件が話し合われたポツダム会談。

 

 

当時の日本では天皇陛下がご臨席される「御前会議」と、「最高戦争指導会議」と呼ばれる会議があった。

 

 

「御前会議」(旧字体:御前󠄁會議)

明治期から太平洋戦争終結時まで、国家の緊急な重大問題において天皇臨席のもとに元老、主要閣僚、軍首脳が集まって行われた合同会議のこと。ただし法制上には規定はなかった

 

「最高戦争指導者会議」

小磯國昭内閣が成立した直後の1944年(昭和19年)8月に、大本営政府連絡会議を改称して設置された会議で、小磯首相は設置理由の背景について、日清戦争、日露戦争時の大本営会議を引き合いに出し、仮に自分が大本営会議に出席したとしても自由な放談や議論をすることは許されないとの考えから、新たに会議を作った。

最高戦争指導会議の出席者は、内閣総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、参謀総長、軍令部総長とされ、必要に応じ、その他の国務大臣や参謀次長・軍令部次長が列席。また重要な案件の審議には天皇が臨席する御前会議の形式で開催された。


1945年(昭和20年)8月22日に廃止された。

 

8月9日、最高戦争指導会議後、鈴木貫太郎首相が裕仁天皇陛下に「御聖断」を仰ぐこととなり、10日に御前会議が開かれ、ポツダム宣言の受諾が決定された。14日に最終的な決定が下され、中立国のスイスとスウェーデンの日本公司館経由で受諾の旨が連合国側に伝えられた。

 

 

■戦争末期の「御前会議」の経緯
6月8日の御前会議「今後採るべき戦争指導の基本大綱」

 

6月10日の段階ではあくまでも戦争の完遂が決定されてしまったわけです。

 

 

■ポツダム宣言

7月26日には米英と中華民国の政府首脳の連名で、日本に対する降伏勧告の宣言である「ポツダム宣言」が出された。

 

ポツダム宣言は米英ソの3国首脳会談で決定され、対日参戦前のソ連ではなく、中華民国総統の同意を得て、中華民国の名前が米英に加えられた形で米英中の三国の連盟で発表された。

 

ソ連は8月9日の対日参戦後にこの宣言に加わっている。

 

 

■天皇陛下の御意思が繁栄されなかった鈴木首相の発言

実はこの「ポツダム宣言」を受けて、天皇陛下(昭和天皇裕仁陛下)は東郷茂徳外相に以下の様に述べておられたそうです。

 

「これで戦争を止める見通しがついたわけだね。それだけでもよしとしなければならないと思う。いろいろ議論の余地もあろうが、原則として受諾するほかはあるまい。受諾しないとすれば戦争を継続することになる。これ以上、国民を苦しめるわけにはいかない」

 

このお言葉を、東郷茂徳外相が「最高戦争指導者会議」に直ちに伝えなかったはすはないのですが、その御意思は速やかな形では反映されなかった。

 

「最高戦争指導会議」はこの「ポツダム宣言」に対して取りあえず静観を決めてしまったため、2日後の7月28日の記者会見の場で、鈴木貫太郎首相は「黙殺」と「我々は戦争完遂に邁進するのみ」といった発言を行ってしまった。

 

背景として、終戦間際においても尚、軍内部、特に陸軍を中心として、「本土決戦」を主張する参謀・司令官が多く、7月26日に米英中の三国によって発表された「ポツダム宣言」を受諾するという合意はぎりぎりまで形成されていなかった。

 

 

■7月28日に鈴木首相が発したポツダム宣言を「黙殺する」という表現

鈴木貫太郎首相は、7月28日に行われた記者会見の場で、ポツダム宣言について問われた際、「政府としてはなんら重大な価値があるものとは考えない。ただ黙殺するだけである。我々は戦争完遂に邁進するのみである」と強気に答えてしまった

 

「黙殺」という日本語は、日本の同盟通信社では「ignore」と訳されたが、海外のロイタ ーやAP通信などは「reject (拒否)」という単語を使って大々的に報じた。

 

日本側の「ノーコメント」の意味で用いた「黙殺するだけ」という首相が用いた言葉が日本側の「拒否」として国際社会に広がってしまった、とありますが、これは英語を敢えて誤訳することによる罠だったようです。

 

鈴木首相は、この自身の発言を悔やみ、回想記『終戦の表情』には、「この一言は後々に至るまで、余の誠に遺憾と思う点」と綴られていたそうです。

 

海外メディアではポツダム宣言の受諾を日本が「reject (拒否)」していると報道され、これによって米国のトルーマンは、原爆投下の機会を得た、と内心喜んだとされている。かたやソ連は日本からの仲介依頼をはぐらかしつつ、米英ソで密約された「ヤルタ協定」に従って対日参戦への準備を着実に進めていた。

 

引用元

「ポツダム宣言」に対して日本の最初の対応が”ノーコメント”だった真相とは? | 歴史人

 

 

■広島・長崎の原爆被害、ソ連の参戦

1945年8月6日と9日には広島と長崎に「新型兵器=原爆が使用された、米軍による原爆投下」があり、未曾有の被害が発生し、それとほぼ同時に8月8日にソ連がヤルタ協定に従って対日宣戦布告し、9日には侵攻を開始しており、事実上日本はほぼ戦争遂行能力を失っていた。

 

 

御前会議

8月9日の最高戦争指導者会議で鈴木貫太郎首相から天皇の「御聖断」を仰ぐ形で、8月10日の0時3分から御前会議が開かれた。

 

「ポツダム宣言受諾の可否について」

(昭和天皇から)「最後まで本土決戦とか戦争継続とかいうけれども、戦備は一体出来上がっているのか」という御詰問があって、「陸軍の九十九里浜の新配備兵団の装備が、6月頃には完成するという話だったが一つも出来ていないじゃないか」という強い御叱りもあった。

 

御聖断に対しては何人も奉答する者なく御前会議は10日午前2時半終了して諸事唯、聖旨を奉じて取り運ぶこととなった」

御前会議後の10日午前3時、臨時閣議開催。聖断に従い、国体護持のみを条件にポツダム宣言の受諾を決定。

 

(御前会議で)降伏は決定された。8月10日午前2時30分をすぎていた。陸軍中央は聖断下るを聞いて驚愕した。まったく予期しないではなかったが、いちばん恐れていたものが現実となって、幕僚は猛り狂ったのである。

 

日本帝国は降伏へ向って歩みはじめた。ソ連軍の侵攻は樺太、満州でつづき、関東軍総司令部は通化に移動した。

 

陸軍中央の抗戦派幕僚らによる(宮城占拠の)クーデター計画は詳細に練りあげられていた。

 

8月14日御前会議

ポツダム宣言受諾の最終決定

天皇陛下はこのとき「この際、自分の出来ることはなんでもする。国民は今なにも知らないでいるのだから、突然このことを聞いたらさだめし動揺すると思うが、自分が国民に呼びかけることがよければ、いつでもマイクの前にも立つ。ことに陸海軍将兵は非常に動揺するであろう。陸海軍大臣がもし必要だというのならば、自分はどこへでもでかけて親しく説きさとしてもよい」と述べられたそうです。

 

外務省はただちに電文作成に取りかかり、6時間後の8月14日午前9時、中立国のスイスの日本公司館経由で米国と中華民国に、スウェーデンの日本公司経由で英国とソ連に、以下の緊急電報が発せられた。

「帝国政府は天皇陛下の平和に対する御祈念に基き即時戦争の惨禍を除き平和を招来せんことを欲し左の通り決定せり。帝国政府は対本邦共同宣言(ポツダム宣言)に挙げられたる条件中には天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に右宣言を受諾す……」

 

 

 

■8月14日から15日未明に起ったクーデター事件「宮城事件」

ポツダム宣言受諾決定に対し、徹底抗戦を叫ぶ陸軍の若手将校が引き起こした皇居占拠事件。

 

彼らは、東部軍と近衛第1師団を決起させようとし、森赳近衛第一師団長を殺害し、ニセの師団命令を出して、近衛師団の部隊に皇居を占拠させる動きに出た。

 

更に、天皇の終戦の詔勅の放送「玉音放送」を阻止しようと、8月14日深夜から15日未明にかけ、「玉音放送」の収録に立ち会っていた下村宏情報局総裁(注)などを監禁した上で、玉音放送を収録したレコード盤を奪おうと、宮内省など皇居内の建物を捜索し、当時、内幸町にあった日本放送協会(NHK)も襲撃。

 

以下の様な生々しい描写の方がわかり易いので引用させて頂きます。

 

「宮城占領計画は画餅に帰した。しかし、計画は終ったが、実行の方はなおつづいていた。大隊長、中隊長たちは兵をひきい、宮内省内の捜索をなお続けていたのである。第一大隊、第三大隊の数多くの将兵が録音盤捜索に手わけして当った。

 

襲われたのは首相官邸ばかりではなかった。4時半、すっかり夜も明けはなたれたころ、放送会館は叛乱軍近衛第一連隊の第一中隊の将兵によって包囲されていた。

 

放送会館が占領されたとなれば、天皇放送が不可能になる。知らせをうけた高橋部長は顔色を失った」。椎崎中佐、畑中少佐、古賀少佐たち抗戦派の青年将校たちは天皇の終戦の言葉の録音盤を奪って、放送を阻止しようと必死だったのである。

 

この動きに対して東部軍管区の田中司令官が鎮圧に乗り出して、クーデターは失敗に終わり、彼らは日本降伏阻止を断念し、一部は自殺もしくは逮捕された。

 

15日朝には鎮圧され、正午、昭和天皇による「終戦の詔勅」の朗読の放送「玉音放送」は何事もなく行われた。

 

近衛師団司令部(現 東京国立近代美術館工芸館)
 

戦後、宮城事件の関係者へのNHKによるインタビュー

当時近衛師団第一連隊にいた小田敏生さんという方は後にこう語っておられます。

 

Q 小田さんの中隊で行った、NHKの玉音放送の阻止しようとしてたというのはどう思いますか。

A 結果がどうであれですね、当時の立場上、あるいは当時のいわゆる日本国民としての考え方、当時の軍のあり方、そういうものを考えますと、わたしは間違った行動をとったとは思いませんし、まあまあよくやったといって自分をほめてやりたいような気持ちでいっぱいなんです。

引用元

「“玉音放送を阻止せよ”」|戦争|NHKアーカイブス

 

この事件で注目すべきは、天皇陛下をお守りするために明治24年に創設された近衛師団という、全国から優秀な兵が集められたエリート兵団の一部などが、昭和11年の「二・二六事件」の時と同様に、直接関わっていた、という点かもしれません。

 

 

何故彼らは、天皇陛下直近の軍隊でありながら、そのご意志を国民に伝えることを阻止しようとしたのか、そこには玉音放送の中身である「ポツダム宣言受諾」が天皇のご意志ではない、そうであろうはずがないという認識の齟齬がそこにあったのかもしれません。

 

下村宏放送協会会長という方は天皇陛下による玉音放送収録に立ち会い、当日クーデターを起こした兵士らによって監禁されたわけですが、この方は鈴木貫太郎内閣で国務大臣(内閣情報局総裁)にも任命されていた人物だったようです。

 

つまり、当時の内閣とNHKは完全に一体であり、大本営発表とは当時、内閣と一体であった主に、NHKラジオ放送などを通して、日本政府が国民に対して行っていた発表のことでした。

 

(注)下村宏NHK会長

1921年(大正10年)に台湾総督府を退官後、朝日新聞社に入社し専務・副社長を歴任。

1923年(大正12年)2月6日、早稲田大学で科外講義の講師を務め、1937年(昭和12年)1月12日に貴族院議員に勅選され(1946年2月22日まで在任)、同時に財団法人大日本体育協会会長に就任。

1942年(昭和17年)日本文学報国会理事、第1回大東亜文学者大会座長。

1943年(昭和18年)5月15日に社団法人日本放送協会会長となり、

1945年(昭和20年)4月7日に鈴木貫太郎内閣で国務大臣(内閣情報局総裁)となる。

1945年(昭和20年)8月8日、昭和天皇に拝謁して情報局の現場や政情等を奏上。この中で、「和戦いずれにしても聖断を仰ぐべき時なり」という考えを国民の心持ちとして伝え決断を促した。

12月2日、GHQは日本政府に対し下村を逮捕するよう命令(第三次逮捕者59名中の1人)。 戦犯容疑者として巣鴨拘置所に勾留された後に釈放。

 

公職追放を受け、東京商業学校(現ドルトン東京学園中等部・高等部)の運営に関わりながら1953年の参院選に無所属で出馬するも落選に終わっている。

下村宏 - Wikipedia

 

 

昭和天皇の国民への終戦宣言である「玉音放送」の威力は絶大で、終戦後、GHQによる日本統治の間、日本人によって組織的な暴動が起こったことはただの1度もなかった。(例外として、朝鮮学校閉鎖をGHQが決め、日本政府が学校閉鎖しようとした際、38年4月14日~26日に大阪と兵庫で在日朝鮮人の人々と日本共産党が起こした阪神教育事件の際、戦後の日本国憲法下で唯一の非常事態宣言が布告されている)

 

長い記事になったので2つに分けることにしました。