関東大震災は、今日で発生から百年となる1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒に発生した大地震です。
震源地は相模原湾海底、M7.9の地震だったと推定されています。
関東全域の被害:
死者・行方不明者 105,385人(約10万5千)
家屋全壊 128,000戸
家屋半壊 102,000戸
家屋全焼失 447,000戸
避難人数 190万人以上
これは明治以降の日本の地震被害としては最大規模の被害だったそうです。
地震後の被害は南関東および隣接地で死者・行方不明者は推定10万5385人で、その9割近くは避難所などの火災による焼死(約9万2千人)といわれています。
特に「本所、深川一帯での死者、行方不明者は5万8千人を超えおり、本所区、深川区における日本人の対人口死亡率は約15%にのぼった」とあります。
墨田区の横網町公園は、関東大震災時の最大の被害が発生した現場だそうで、 当時この場所は、旧陸軍の被服廠跡地という広い空き地となっており、この空き地に避難した多くの人々が大火災に襲われた。 犠牲者は約4万人。
ではなぜ、広い空き地の避難所で4万もの東京都民が焼け死ぬという2次災害が発生したのでしょうか?「地下の天然ガスが噴き出した」などの「珍説」で説明できるのだろうか?
横網町公園の慰霊堂
横網町公園に避難した人約4万人の国民が火災の犠牲になった。
震災後、遺体はその場で火葬され、3mの高さになるほどの大量の遺骨は、その場に急遽作られた仮設の慰霊堂に収容された。
納骨堂(三重塔)や慰霊堂は建築家の伊東忠太らが設計することになり、1930年に完成し、納骨堂には犠牲者5万8000人の遺骨が納められた。また、数十個の大瓶に移された遺骨は堂内に安置された。
関東大震災から100年 数万人を焼死させた火災原因をさぐる – テレビ番組 | WAC ワック (web-wac.co.jp)
■当時の火災による死傷者などの被害よりも「反日メディア」が言及する言葉
百年目にあたり、昨日、岸田内閣の松野博一官房長官が記者会見で、関東大震災当時の「朝鮮人虐殺」を巡って、過去に政府の会議が報告書で虐殺を認定していることについて「(報告書は)有識者が執筆したものであり、政府の見解を示したものではない」と述べたそうです。
松野長官は「政府内で事実関係を確認できる記録が見当たらない」として論評を避けたそうです。
「朝鮮人虐殺、政府内に記録が見当たらない」、松野官房長官の発言はやっぱり「ウソ」じゃないですか? (msn.com)
日本人の避難所の火災という2次被害での数万人規模の犠牲者については言及すらしないメディア↓
朝鮮人虐殺、犠牲者を追悼 東京・横網町公園など:時事ドットコム (jiji.com)
政府が「朝鮮人虐殺」の認定などについての言及を避けたことに、立民の原口一博議員が、以下の様にSNSでかみついておられます。
都合が悪いとみるとなかった事にする。それがどれほど信用を落とすか。
— 原口 一博 (@kharaguchi) August 31, 2023
「鮮人と見れば事の是非曲直を問わず直ちに迫害を加え」「民衆の鮮人に対する迫害は漸く過激に亘り殺傷をも恣にする」
資料がないという答えは、国家としての芯がないという答えと同じこと。 https://t.co/Y4YlO70NjQ pic.twitter.com/SIWVFq39t7
当時の警視庁がまとめた関東大震災の記録に「鮮人と見れば事の是非曲直を問わず直ちに迫害を加え」「民衆の鮮人に対する迫害は漸く過激に亘り殺傷をも恣にする」と書いてあります。
しかしながら、この資料には(虐殺された)朝鮮出身者の被害者の数」とその背景については具体的な記述はありません。
これでは、全体像の「切り取り」になってしまいます。実際に何が起こっていたかを語っていないのは薄っぺらな「人道主義」でしありません。
(推定されている「虐殺」の数字があるので、根拠を示した上でその数字を最後の方に貼っておきました)
原口議員は正義感の強い方のようですが、日本の国会議員なのですから、国益の観点からも、当時の時代背景全体像と個別に現場で起きていた事象にも、目を向けた上でその事象が何故起こってしまったのかを冷静かつ公平に論じるべきように思います。
当時の歴史的背景としてどのような状況があったのかについて以前別ブログで書いたことがありますが、もう一度ここでまとめてみます。
■時代背景としての「日韓併合」と「三・一独立運動」
当時の時代背景としての1910年の「日韓併合」と、民族主義者らによる「三・一独立運動」があったようです。
日清戦争後の「下関条約」で清からの冊封体制から独立し、その後、日露戦争後に日本の「保護国」となった「大韓帝国」の最大の政治勢力であった「一進会」(1904年~)という韓国人政治団体(100万人規模と自称)が、「日韓併合」を要求。
保護国である朝鮮の総督府初代総監伊藤博文はこれに反対していたそうです。
伊藤博文統監は(併合に伴う日本側の負担の大きさもあり)あくまで「朝鮮の自治が必要」としていた。
そして1909年10月26日、併合に反対していた伊藤博文公が中国ハルピン駅にて暗殺される事件が起こっています。
この事件後、一進会は1909年12月4日再び「合邦声明」を出し、伊藤の後の第2代韓国統監である曽根荒助と、韓国首相であった李完用(イ・ワンヨン)に対し「日韓合邦」の請願を提出。
1910年6月3日「併合後の韓国に対する施政方針」が帝国議会で閣議決定し、8月22日寺内正毅第3代総監と李完用韓国首相により調印され、韓国は日本に併合。
実質的には韓国の当時最大勢力である政治団体が、自らの国が近代国家へと脱皮するための唯一の道として日韓併合を選んだとういうものでした。
■朝鮮出身者の流入
「日韓併合によって日本国内に多数の朝鮮出身者が流入しており、震災当時東京都内に約9千人(政府の計算では東京在住者はおよそ9千人(労働者6千人、学生3千人)とされています。(「現代史資料6」朝鮮総督府警務局文書)
横浜ほか東京近県には3千人が住んでいたので、合計1万2千人だったそうです。
夏休みで帰郷していた学生がこの内の2,200人(東京1,800、その他400)と推定され、差し引き9,800人がその当時の東京・横浜附近にいた、と推定されている。
これは多くの関係資料が認めるところのようです。
■多発していた「朝鮮人による犯罪事件」
大正天皇の御不例が巷間噂されはじめた1917(大正6)年10月にはロシア革命が成立。
労働運動の波が朝鮮半島をも 席捲し、大正デモクラシーの風潮にのって日本本土でも社会主義者や共産主義者が勢いを得ていた。
ロシア革命の成功からコミンテルン創立への一連の趨勢が民族主義と一つになって発火したのが1919(大正8)年3月、韓国における「三・一独立運動」だった。
「三・一独立運動」の中心人物たちは上海へいったん上陸し、満州の間島(カンド・現・中国吉林省東部、ロシア、北朝鮮に向かい合う一帯)であらためて武装闘争の準備を始めた。1921年9月12日に京城(現ソウル)の朝鮮総督府爆弾投擲事件が発生。
犯行は組織的テロ集団「義烈団」の金益相によるものとわかり、金は上海で逮捕。
別の一群は日本を運動拠点に定め、密入国して朝鮮独立と社会主義運動の拡大を目指していた。
以来、日本における朝鮮人の犯罪が新聞に載らない日はないと言っていいくらい、活動資金調達のための現金強奪事、首相官邸の爆破襲撃未遂事件などが多発。
■原内閣の退陣
原内閣のあとを引き継いだ高橋是清内閣も翌大正11年6月内閣府統一によりわずか半年足らずで 瓦解 。
後継の加藤友三郎首相は8月24日に急死。
次期首相には大地震の4日前の8月28日午後、海軍大将 山本権兵衛に二度目の大命が下りた。
■「義烈団」というテロ組織
1923(大正12)年の4月、摂政宮皇太子(後の昭和天皇)は軍艦「金剛」で台湾行啓に赴かれたが、このときすでに義烈団のテロ行為が危ぶまれていた。
魏烈段は台湾で早くから皇太子暗殺計画を練り、団員はすべてピストルを携行し爆弾部隊も編成されていたが、結果として厳重な警戒態勢が功を奏し、無事に台湾視察から帰国。
しかし「義烈団」をはじめとする朝鮮人過激派は皇太子暗殺を諦めたわけではなく、実は摂政宮の御婚儀の機会を虎視眈々と狙っていた。
摂政宮を暗殺し、日本の国体を揺るがせて独立運動の勝利に結びつけようという朝鮮独立運動家たちのたくらみは政府も重々承知して、警戒を強めていた。
目標達成のため日本国内への侵入を繰り返し、時機をうかがっていた上海の大韓民国臨時政府とその 庇護を受けたテロ集団にも路線をめぐる党派争いがあり、その結果、いくつかに分裂した集団は個々に計画を練り、日本内地襲撃を狙っていた。
いずれの分派も目標の第一は摂政宮の御成婚当日、それも摂政宮そのものを目標とし、一斉に暴動を起こすことが画策。
ところが、テロリスト集団さえ予想もしなかった大地震がまだ準備の整わない9月1日に起きてしまった。彼らにとっても想定外の混乱が生じたが、これを「機会」ととらえて内地にいる”工作勢力”に様々な事件を起こすよう呼びかけた。
■9月1日
大震災のニュースを聞いた朝鮮の過激派労働者集団「義烈団」らは共産主義を鼓吹する者及之等に依り組織せられたる各種の労働団体に、今次の震災は地震の被害より之に伴ふ火災の損害が最甚大なる規模なるが、火災は我等と志を同ふせる主義者同人が革命の為放火したるに因る(よる)ものなり」と喜んだ、とある(「現代史資料6」)
本所深川あたりから避難してきた罹災者約3千名が集まっていた越中島の糧秣廠 (りょうまつしょう)を爆破し、多くの避難民を殺害して逮捕された朝鮮人テロリストの証言によれば、目標は11月27日の御大典(皇太子のご成婚の式典)だった。
しかし、大震災が起こって予定通りに行われるかどうかわからなくなったので、大震災という好機を逃すべからずと決断したとのことだったと証言。
逮捕後に「目標は御大典(御成婚の祝典)だったが、大震災に乗じてことを起こした」と自白したテロリストはずいぶん多かったそうです。
軟弱な地盤に家屋が密集する東京下町一帯は、地震による倒壊にとどまらず、「避難所の大規模な火災」の発生によって 未曽有 の大被害を受けた。
避難所の火災は実は「放火」によるものなどが原因だった。
流言飛語などではなく「当時の新聞」が、9月1日の関東大震災のあとに起きた事件の様子を以下のように報じています。
新聞が「関東一帯を騒がした鮮人暴動の正体はこれ」なる見出しで報道した内容です。これは単なる「流言飛語」ではなく、正真正銘暴動が起こっていたことを新聞が報じていたわけです。
「不逞鮮人各所に放火し帝都に戒厳令 を布く」「鮮人、至る所めったぎりを働く二百名抜刀して集合 警官隊と衝突す」「三日朝二人づれの鮮人が井戸に猫入らずを投入せんとする現場を警戒員が発砲して直ちに逮捕した」
(いずれも「東京日日新聞」)
東京日日新聞(一六八六七号)
「火をのがれて生存に苦しむ牛込」「雨と火と朝鮮人との三方攻め」といふ題下にて、次の如き記事が載せてあつた。
「火に見舞れなかつた唯一つの地として残された牛込の二日夜は、不逞鮮人の放火及び井戸に毒薬投下を警戒する為め、青年団及び学生の有志達は警察、軍隊と協力して、徹宵し、横丁毎に縄を張つて万人を附し、通行人を誰何する等緊張し、各自棍棒、短刀、脇差を携帯する等殺気立ち、小中学生なども棍棒を携へて家の周囲を警戒し、宛然在外居留地に於ける義勇兵出動の感を呈した。
市ヶ谷町は麹町六丁目から、平河町は風下の関係から(此所新聞紙破れて不詳)又三日朝二人連の鮮人が井戸に猫イラズを投入せんとする現場を警戒員が発見して直ちに逮捕した。」
下野新聞(九月六日)に「東京府下大島附近」「鮮人と主義者が掠奪強姦をなす」と云ふ題下にて次の如き記事が記載されていた。
「東京府下大島附近は、多数の鮮人と支那人とが空家に入り込み、夜間旺に掠奪強姦をなし、又社会主義者は、市郡に居る大多数の鮮人や支那人を煽動して内地人と争闘をなさしめ、そして官憲と地方人との乱闘内乱を起させ様と努めて居る許りでなく、多数罹災民の泣き叫ぶのを聞いて、彼等は革命歌を高唱して居るので、市民の激昂はその局に達して居る。」
地方紙(愛知県)でも横浜で起こった「戦闘」について報道。
横浜では、朝鮮人およそ二千人が掠奪と強姦をくりかえし、軍隊の出動もままならないので、監獄の囚人を解放して、看守の指揮のもとでこれに対抗して大戦闘になり、朝鮮人百余人をたおした。(「河北新報」)
品川では、横浜方面から鉄砲や日本刀で武装した三百人ほどの朝鮮人が押し寄せて爆弾を投げて暴れ、住民が防戦するうち、第三連隊が出動して鎮圧したか朝鮮人と間違えられて殺された日本人もかなりいた(「北海タイムズ」)
9月3日
「朴烈事件」
震災の戒厳令発令直後の東京淀橋警察署が「朝鮮人無政府主義者」朴烈とを逮捕。
朝鮮独立運動家と思われていた朴烈を取り締まることを目的に治安警察法が予防検束を口実にして朴烈とその愛人金子文子を逮捕。予審などで、朴烈は御成婚の折に皇太子をはじめ、日本の政財界の要人の暗殺計画(爆殺計画)を立てていたと供述。
このため「爆発物取締罰則違反」から一転して「大逆罪」で告発された。
1926年3月には死刑判決が下された後、同年4月になって天皇の慈悲による恩赦によって無期懲役に減刑されると、朴烈は激怒した。朴烈は減刑拒否を宣言したが、無視されて無期懲役刑に決まった。なお、獄中で結婚する意向だったがこの三ヶ月後に文子は死亡。
朴烈は、千葉刑務所に長期服役し最後は秋田刑務所に移ったが、第二次世界大戦で日本が敗戦した後の1945年10月27日まで獄中で過ごし、その後釈放されている。
「朴烈事件」を報じた当時の東京新聞
朴烈の計画は「黒龍会」(注)の通報による逮捕で未然に防ぐことが出来たが、「皇太子暗殺計画」などの大胆な計画の実行と資金調達は組織力や指導部なしに実行することはできず、背後には「抗日パルチザン」という組織があった。
組織の主力は満州北辺の関島と上海にあり、内地にも有力な支援組織があると考えられていた。
ロシアと結びついていた共産主義者や社会主義者達が「抗日パルチザン」からの資金調達を得て、日本を赤化するべく工作活動を行っていた。
後の「ゾルゲ事件」(1941年)から、そうし工作活動が当時の日本の中枢にまで及んでいいたこともわかっています。
(注)黒龍会
主宰者 内田良平は、震災時における朝鮮人の謀略をいちはやく告発した人物である。彼はそれを政府に訴えた文章のなかで、朝鮮人独立運動家の背後にいるのは社会主義者であり、日本の赤化運動を狙うロシアが日本の社会主義者と朝鮮人を扇動し、彼らは気脈を通じ合っていると指摘。
彼らの思想は「大アジア主義」であり、韓国一進会の会長李容九と共に「日韓連邦建設」「日韓合邦論」を叫んで、日韓が力を合わせ白人の東洋侵略に対抗するべく日韓合邦運動を展開した、とある、
黒龍会 - Wikipedia
市民に厳重な警戒を求めるよう報道を指揮してきた内務省だが、震災翌日には風向きが変わりはじめた。
■9月4日
「東京朝日新聞」の記述
「武器を持つ勿れ 朝鮮人は全部が悪いのではない。鮮人を不当にイヂメてはならぬ」という内容の手書きの号外が出され、ほぼ同じ内容の「善良な鮮人を愛せよ」という告示が翌朝、他紙にも掲載。
これらの記事では、朝鮮人による襲撃がなかったとは一言も書かれていませんが、「戒厳令が発令された以上は軍にまかせて市民は武器を持つな、善良な朝鮮人もいるのだから、そういう者は敵視するな」という限定した意味が込められ、テロリストらと関係のない朝鮮人まで巻き添えになる危険性を危ぶんでいたことがわかります。
■9月6日
「三大緊急勅令」なるものが公布
一般の朝鮮人への虐殺を防ぐため「朝鮮人襲来記事を流布すれば処罰する」という強硬手段が講じられた。(これはヘイトスピーチ対策法のようなもので、一方で一般市民の「知る権利」や「言論の自由」に反してはいる)
■9月9日
「義烈団」の団長で朝鮮独立運動家の中国の軍人である金元鳳(キムウォンボン)が震災から8日後の9月9日、日本の民心動揺を好機ととらえ、部下を集めて天津から東京へ向かわせていた。
「義烈団」が保管してた爆弾50個を安東(アントン・韓国慶尚北道の日本海に近い都市)に発送したという情報を警務局がキャッチ。
因みに関東大震災の後も、「昭和天皇暗殺」未遂事件は幾度か起っています。
李 奉昌
1932年1月8日、金九の命を受けて昭和天皇の暗殺を試みて桜田門事件を起こしたが、襲撃は失敗し大逆罪となって死刑に処された。本貫は全州李氏。日本名は木下昌蔵。韓国では独立運動家、義士とされている。
関東大震災のさなか、緊迫した状況下の一般朝鮮人に対する保護もなされていた
同時に一般朝鮮人への保護具体策が次々にとられた。
朝鮮半島出身者らを千葉県習志野、および下志津の兵舎に収容し、衣食住と医療を安定させた。施設の朝鮮人収容能力は1万5千人分にも達していた。(これは収容能力であって、実際に収容された人数ではない)
実はこの状況について、「保護」であったにもかかわらず、歩かされて「強制連行」されたと主張する史料が多いのだそうです。
震災の被害などの混乱状態の中で、市民への食糧、医薬品、警備に使う車さえこと欠き誰もが歩いていた中なのに、です。
そして新聞は手のひらを返したように、「鮮人団相愛会が無償で道路工事 誤解をとく為に奉仕」「鮮人に救はれた老婆」などという朝鮮人の"美談”を載せ始めていたそうです。
(「道路工事」というのは要するに道路の障害物を取り除く作業のことで、これはそこに住む住民であれば、美談でも何でもない当たり前のことでしかないようにも思えますが)
こうした一連の措置は、内務相兼帝都復興院総裁に就任した後藤新平の発案によるものだったそうです。
後藤は、「朝鮮人の暴動があったことは事実だが、このまま自警団にまかせて力で押しつぶせば、彼らはそのままでは引き下がらないだろう。その報復の矢先が万が一にも御上(皇室)に向けられたら大変なことになる」と、当時、警視庁官房主事であった正力松太郎(戦後、読売新聞社主となった)に語った。
やはり、最悪の事態である「皇太子暗殺」への懸念が強かったことがうかがえます。
■「虐殺」の具体的な数字
東京およびその周辺にいた朝鮮人で、震災後に収容保護された人や無辜なのに殺害された233人を除くと3003-233=2700人。
この人数の内、震災で死亡した人数がどのくらいいたかであるが、少なくとも、震災での死亡者が0人であろうはずはなく、実際は233人以外の数字については残り2700人以下であること以外には詳細はここでは不明。
東京府全体の死者、行方不明者は7万人余(死者総数は10万5千人余)、下町界隈の死者は実にその80%といわれ、朝鮮人も多く居住していた本所、深川一帯での死者、行方不明者は5万8千人を超えており、本所区、深川区における日本人の対人口死亡率は約15%にのぼった。
多くの朝鮮人の家屋はおそらく耐久性も低く、劣悪な環境だったと推察されるので、それより多めの20%を対人口死亡率ほどと仮定して、被災基礎人口9,800人に乗ずると、1,960人という数字が震災による死者、行方不明者として算出。
2,770人からこれを引けば2770ー1960=810人となり、これがテロリストやその賛同者、または付和雷同して自警団に現行犯的に処刑されたおよその人数と推定できる。
(要約)
東京及びその周辺に震災の日の当時に当時住んでいた約9800人の朝鮮人の内、殺害された、無辜の朝鮮人233人。
収容所に保護された人数は、6,797人、
震災による推定死亡者は1,960人、
残る810人は共産主義者や社会主義者に扇動され、放火などのテロ行為で、自警団によってその場で処刑された人数と推定。
但し、震災によって死亡した人数も1960人以上もっといた可能性もあります。(何しろ日本人は10万5千人も死んでいるのだし、また、自主的に他地域へ避難した人もいたであろうと考えられる。
日本人と朝鮮人の衝突は不幸な事件であることは事実ですが、もとはといえば、横浜から押し寄せてきた朝鮮人の一団をはじめ、多くのテロリストが目の前に現れたゆえの結果なのです。
それを現在の日韓の国民の多くが知らずに、「朝鮮人の虐殺が起きた」という言葉ばかりが目立ちます。
日本人の朝鮮人に対する憎悪や自警団による過剰な攻撃を止めさせるためにやむを得なかったとはいえ、実際は暴動が起き、何万もの日本人が放火などの犠牲になったにも関わらず、こうして朝鮮人の暴動はなかったこと、あるいはデマだった、「流言飛語」に惑わされたのだ、という虚構にすりかえられていった。
■「内乱」を起こした「便衣兵」という見方
ゲリラとされる、戦時下敵国の便衣兵をその場で処刑するのは「戦時国際法」上、治安上やむ無しと認められている。
大震災という事態で、皇太子暗殺計画の代わりに「この好機を逃すまい」と混乱を利用して暴動を起こした朝鮮人のテロリストらは「内乱罪」の適応対象であるから、その場での処刑もやむを得なかった。
震災そのものではなく、避難所の火災や爆弾テロで多くの日本人が亡くなっているのも事実で、それを当時の新聞が当初指摘していたわけです。
自警団は自らの命をかけて、手段を選ばず、皇太子暗殺さえ計画していたテロリストの大胆で無差別ともいえる襲撃から街や家族を守っていたのだともいえます。
テロリストによる暴動や放火などが起き、そのために犠牲になった日本人の数が遥かに多いとはいえ、当時日本にいた朝鮮出身者で、テロリストとは無関係の人々で殺傷された例などもやはり痛ましい犠牲者であり、忘れてはならないと思います。