7月は万博に行ったため、ブログをお休みしました。万博は事前準備が大変だし、体力が要りますね。当初2回の予定でしたが、思った以上に楽しく、チケットを買い足して4回行きました。万博の記事は「散策日記Ⅱ」に投稿しています。よかったら覗いてください。
久々に展覧会ブログの更新です。
8月9日(土)兵庫県立美術館。「藤田嗣治×国吉康雄 二人のパラレル・キャリアー百年目の再会」は、20世紀前半の激動の時代に、海外で成功と挫折を経験した二人の画家、藤田嗣治(1886-1968)と国吉康雄(1889-1953)について、9つの章を通して作品を対比させながら紹介する展覧会。
藤田嗣治の作品は、パリ派(エコール・ド・パリ)の展覧会で度々見かけましたが、国吉康雄の作品を見るのは初めて。アメリカ具象絵画を代表する画家らしく、昨年大山崎山荘美術館で見たアンドリュー・ワイエス展を思い出しました。
以下、展覧会の内容です。兵庫県立美術館HPを参考に、少しコメントを加えました。
第1章 1910年代後半から20年代初頭:日本人「移住者」としてのはじまり
1906年、16歳で労働移民として渡米した国吉は、教師の勧めで画家を志し、ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで研鑽を積みます。東京美術学校卒業後の藤田は1913年26歳で渡仏。第一次大戦下も欧州にとどまり、戦後、パリの諸サロンで入選を重ねます。
藤田嗣治《二人の少女》1918年
軽井沢安東美術館
国吉康雄《夢》1922年
石橋財団アーティゾン美術館
第2章 1922年から24年:異国での成功
乳白色の下地による裸婦のスタイルを確立した藤田は、20年代前半のパリの諸サロンに代表作《五人の裸婦》などを発表します。ニューヨークの国吉は1922年からダニエル画廊で毎年個展を開き、複数の展覧会に参加を続け、東洋的と評された作風で注目を集めました。
藤田嗣治《タピスリーの裸婦》1923年
京都国立近代美術館
国吉康雄《幸福の島》1924年
東京都現代美術館
第3章 1925年と1928年:藤田のパリ絶頂期と国吉の渡欧
今から百年前の1925年、パリではアール・デコ博覧会が開かれ、日本からも多くの視察がありました。国吉は1925年と28年に当時の妻で画家のキャサリン・シュミットとパリに滞在します。ブルガリア出身で、ニューヨークとパリを往来するジュール・パスキンは藤田、国吉の共通の親しい友人でした。
藤田嗣治《舞踏会の前》1925年
公益財団法人大原芸術財団 大原美術館
国吉康雄《化粧》1927年
福武コレクション
国吉のパスポート。右上に神戸港から出国した記録がある。
藤田の活躍ぶりが分かる日記。パスキンの勧めもあり、モデルを使って絵を描き始めた国吉にとって、藤田は近寄りがたい存在でした。
第4章 1929/1930/1931年:ニューヨークでの交流とそれぞれの日本帰国
藤田は1929年に初めて母国に一時帰国を果たしました。いったんパリに戻り、1930年秋、ニューヨークでの個展のために藤田は渡米します。ここでふたりは直接交流する機会を得ました。その後、藤田からの紹介状を手に、1931年、国吉は24年ぶりに母国に向かいます。
藤田嗣治《自画像》1929年
東京国立近代美術館
国吉康雄《サーカスの女玉乗り》1930年
個人蔵
国吉康雄、近藤赤彦、藤田嗣治《色紙》1930年11月18日
トム&シェリル・ウルフ氏所蔵
国吉と近藤が描いた牛の上に、藤田の絵が描かれている。
藤田描画の部分を再現すると、「牛めし」ののれんが描かれていた。
藤田嗣治《手帳》1930年頃
東京藝術大学
藤田は終わった予定に×をつける習慣があった。手帳の中に国吉の住所があり、この頃既に交流を持っていた事が分かる。
有島生馬《「初めて国吉君に逢つて」『中央美術』第11号》1934年
兵庫県立美術館
有島生馬と国吉は、藤田嗣治の紹介で知り合った。
国吉康雄《「アメリカの美術界」『美術新論』第7巻、第1号》1932年
島田安彦コレクションアーカイブ
第5章 1930年代:軍国主義化する母国の内外で
30年代初頭にパリを離れ、中南米経由で33年秋に母国に戻って定住した藤田はフランス、日本・アジアの風俗など新たな画題に取り組みました。国吉は順調な制作を続け、受賞を重ねました。母校で教職につき、さらに芸術家権利向上・団結を目指す活動にも力を注ぎます。
藤田嗣治《猫のいる静物》1939-40年
石橋財団アーティゾン美術館
国吉康雄《逆さのテーブルとマスク》1940年
福武コレクション
第6章 1941年から45年:日米開戦下の、運命の二人
1941年12月8日の日米開戦が、親しかった在外邦人画家の運命を別ちます。藤田は母国で、軍部からの作戦記録画の注文に力を注ぎます。国吉のアメリカでの立場は敵性外国人となり、行動制限を受けるなか、軍国主義を批判する活動や制作に取り組みました。
藤田嗣治《ソロモン海域に於ける米兵の末路》1943年
東京国立近代美術館(アメリカ合衆国より無期限貸与)
国吉康雄《誰かが私のポスターを破った》1943年
個人蔵
国吉康雄《戦争ポスターの習作(殺人者)》1943年
福武コレクション
国吉康雄《制作中》1943年
福武コレクション
第7章 1946年から48年:戦後の再生と異夢
戦後、藤田は「戦争責任」をささやかれるなか、裸婦や幻想的な情景の制作を再開しつつ、フランス帰還の可能性を模索します。国吉は制作と美術家組合の活動に邁進。1948年ホイットニー美術館で個展の開催を迎えます。同館では初の現存作家の個展という栄誉でした。
藤田嗣治《私の夢》1947年
新潟県立近代美術館・万代島美術館
国吉康雄《祭りは終わった》1947年
岡山県立美術館
ホイットニー美術館《国吉展のレセプション・パーティー》1948年
福武コレクション
国吉康雄《仲田菊代宛 書簡(複製)》1948年3月18日
福武コレクション
仲田菊代は有島生馬の紹介により知り合った画家。海外生活の長い国吉は、日本語より英語の方が堪能だった。
第8章 1949年ニューヨーク:すれ違う二人
藤田は1949年3月、離日・渡米を果たし、ニューヨークに約10か月滞在。現地では恵まれた画材や美術館の西欧名画と再会し、11月にはマシアス・コモール画廊で個展を実現します。国吉は藤田不在の個展会場を訪ねたようですが、この間、二人の再会はありません。
藤田嗣治《美しいスペイン女》1949年
豊田市美術館
国吉康雄《カーニヴァル》1949年
個人蔵
第9章 1950年から53年:藤田のフランス永住と国吉の死
1950年秋に体調を崩した国吉は、移民法改定を受けアメリカ国籍取得の手続き途上の1953年5月に亡くなりました。1950年初にパリに帰還し、55年にフランス国籍を取得して日本国籍を手放した藤田は、晩年カトリックに改宗。1968年に没し、欧州の土に還ります。
藤田嗣治《二人の祈り》1952年
名古屋市美術館
国吉康雄《ミスターエース》1952年
福武コレクション
国吉康雄《有島生馬宛 書簡(複製)》1950年2月21日
日本近代文学館
有島生馬とは、GHQの占領下で再会した。
フランク・シャーマン《メモ(複製)》1950年10月12日頃
河村泳静氏所蔵(伊達市教育委員会寄託)
フランク・シャーマンはGHQの民生官で、戦後、国吉を支援した人物。藤田のニューヨーク滞在も支援していて、二人の仲を取り持とうとした。不仲説がささやかれた二人であるが、お互い苦手意識を持っていて、接触を避けていたものと思われます。
神戸新聞 1975年11月23日
兵庫県立近代美術館開館5周年記念「国吉康雄展」開催期間中の記事。生前の国吉は日本人離れした感性の持ち主だったと紹介されている。
8月17日(日)まで。巡回なし。兵庫県立美術館HP内にある「見どころキューブ」が優れもので、展示作品を人物・動物・風景・静物に分類。作家別に絞り込みもできます。