10月11日(金)京都国立博物館「法然と極楽浄土」展。
ここの展示は難しいので、音声ガイドは必須です。厳かなナビゲーションを聞いていると、あたかも仏教寺院にいるような錯覚に陥りました。
以下の文章は、公式サイトからの引用です。
第1章 法然とその時代
相次ぐ戦乱、頻発する天災や疫病、逃れられない貧困など、平安時代末期の人々は苦悩に満ちた「末法」の世に生きていました。
この時代に生を享けた法然は、比叡山で天台僧としての修行を積みますが、43歳の承安5年(1175)、唐の善導(613~681)の著作によって専修念仏の道を選びました。「南無阿弥陀仏」と称えれば救われるという教えは幅広い階層の信者を得ます。
しかし、既存の仏教界からは念仏を止めることが強く求められ、ついに法然は75歳のとき讃岐国(香川県)へ配流されるに至りました。やがて帰京し、80歳で往生を遂げます。
第1章では、浄土宗の歴史のはじまりである、祖師・法然(1133~1212)の事績や思想をたどりました。
冒頭が宗祖・法然の自筆と伝わる、浄土宗の根本宗典
重文《選択本願念仏集(廬山寺本)》
鎌倉時代(12~13世紀)京都・廬山寺蔵
建久9年(1198)九条兼実の要請によって法然が撰述したとされる。念仏こそが末法の世にふさわしい行であることを体系的に述べた日本仏教史上重要な文献。本書は冒頭に法然の自筆が含まれるといわれるもの。
数少ない鎌倉時代の作、法然の肖像彫刻
重文《法然上人坐像》
鎌倉時代(14世紀)奈良・當麻寺奥院蔵
鎌倉時代に造られた数少ない法然の彫像である。頭の頂が平らで角張った形が肖像画からうかがえる法然の特徴だが、この像の頭部は丸い。年齢は数ある画像より若い壮年期に見える。肖像画を写したのではなく、記憶から造ったのかもしれない。
宗祖・法然の足跡をたどる長大な聖典
国宝《法然上人絵伝 巻第六》
鎌倉時代(14世紀)京都・知恩院蔵
全48巻に及ぶ大部の法然伝。法然の生涯だけでなく、浄土宗に帰依した公家・武家や弟子たちの事績までをも収めた、数ある法然伝の集大成といえるもの。「四十八巻伝」または後伏見上皇の勅命でつくられたと伝わることから「勅修御伝」とも呼ばれる。
第2章 阿弥陀仏の世界
法然は、本尊である阿弥陀如来の名号をひたすらに称える称名念仏をなにより重んじました。
貴賎による格差が生まれる造寺造仏などの善事をすることには否定的で、法然自身は阿弥陀の造像に積極的ではありませんでした。しかし、それを必要とする門弟や帰依者らには認めました。
彼らは阿弥陀の彫像や来迎する様を描いた絵画を拝し、日ごろ念仏を称え、あるいは臨終を迎える際の心の拠りどころとしたのです。
多くの人々の願いが込められた阿弥陀の造形の数々は、困難の多い時代、庶民にまで広がった浄土宗の信仰の高まりを今に伝えています。
修理後初公開!修理によってよみがえった美の最高峰
国宝《阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎)》
鎌倉時代(14世紀)京都・知恩院蔵
早来迎は、対角線構図によって速度感を強調した来迎図を指すが、本図は異例な正方形画面とし、生まれた余白に山水景観を描くことで、三次元的な情景表現を達成している。修理で肌裏紙(本紙の裏に直接貼る補強紙)が交換され、山水表現がより鮮明になった。
山越しに姿を現した、密教的思想による阿弥陀図
《山越阿弥陀図》
鎌倉時代(13世紀)京都・永観堂禅林寺蔵
浄土での説法を示す印相を結ぶ阿弥陀如来が、山の間から上半身を表す阿弥陀図の優品。画面左上に大日如来の種子「阿」字が表されることから、専修念仏の密教的解釈を行った禅林寺の思想を表したものとみられる。
数万人の思いがつまった法然一周忌の仏像
重文《阿弥陀如来立像》
鎌倉時代・建暦2年(1212)浄土宗蔵
法然の一周忌を期して弟子の源智(1183~1239)が発願し、数万人の結縁を募って造像したことが像内納入品から知られ、法然示寂後の専修念仏の広がりを伝える。快慶の作風に近いが、立体感に富む衣文の彫刻など相違点も見られる。特定できないが作者は慶派の有力な仏師と考えられる。
第3章 法然の弟子たちと法脈
法然のもとには彼を慕う門弟が集い、浄土宗が開かれました。法然没後、彼らは称名念仏の教えを広めようと、それぞれ精力的に活動をおこないます。
九州(鎮西)を拠点に教えを広めていった聖光(1162~1238)の一派である鎮西派は、その弟子良忠(1199~1287)が鎌倉を拠点として宗勢を拡大しました。
また、証空(1177~1247)を祖とする一派である西山派は、京都を拠点に活動を展開し、『観無量寿経』を図示した観経曼陀羅(當麻曼陀羅)を見出しその流布に大きな業績を残しました。
蓮糸で織られた伝説をもつ究極の極楽浄土図
《綴織當麻曼陀羅》
中国・唐または奈良時代・8世紀 奈良・當麻寺蔵
浄土経典『観無量寿経』を織り出した縦横4メートルに及ぶ大曼陀羅で、古代から浄土信仰の聖地でありつづけた當麻寺の本尊。これほど高度な技術によって制作された8世紀の遺例は世界でも他にない。
枕元に小さな極楽浄土
《蒔絵厨子入阿弥陀三尊立像》
(阿弥陀三尊立像)鎌倉時代・13世紀
(蒔絵厨子)室町時代・16世紀 京都・報恩寺蔵
阿弥陀三尊来迎の彫像を納めた、高さ15センチに満たない厨子。優美な蒔絵、彫金の飾金具、精緻な銀製光背などから、貴人の念持仏であったと想像される。寺伝には後柏原天皇(1464~1526)下賜という。
弟子たちとの手紙に遺された法然の肉声
重文《源空証空等自筆消息》
鎌倉時代・13世紀 奈良・興善寺蔵
法然晩年のころ、のちに西山派祖となる証空など門弟たちとやり取りした消息(手紙)。人柄が感じられるような内容も多い。興善寺の阿弥陀如来立像の胎内から見出されたもので、結縁交名(造立に関わった人々の名簿)が裏面に記されている。
第4章 江戸時代の浄土宗
聖冏(1341~1420)が常陸国で関東浄土宗の礎を築き、聖聡(1366~1440)が江戸に増上寺を開くと、その弟子たちは体系化された浄土宗の教義を全国へ普及していきました。
その流れは三河において松平氏による浄土宗への帰依へとつながり、末裔の徳川家康(1543~1616)が増上寺を江戸の菩提所、知恩院を京都の菩提所と定めたことにより、教団の地位は確固たるものになりました。
第4章では、将軍家や諸大名の外護を得て飛躍的に興隆した江戸時代の浄土宗の様子をたどり、篤い信仰を背景に浄土宗寺院にもたらされ、現代に伝えられた、多彩でスケールの大きな宝物を見ました。
知恩院に置かれ、帝都鎮護の御影と呼ばれた像
重文《徳川家康坐像》
江戸時代・17世紀 京都・知恩院蔵
慶長8年(1603)徳川家康は知恩院を生母於大の方の菩提所とした。この像はそれから程なくして家康自身の命によって造られたと伝わる。黒い袍には三葉葵の紋と唐草が黒漆で描かれる。江戸時代を通じて将軍家の御用を務めた七条仏師の作と見られる。
徳川家康が増上寺に奉納した3組の仏教聖典
重文《大蔵経》
江戸に開府した徳川家康は、大和国、周防国、近江国の寺院から、領地と引き換えにそれぞれ宋版、元版、高麗版の大蔵経を召し上げ、増上寺に寄進した。3組の大蔵経があわせて伝来する例は世界的に極めてめずらしい。
宋版
中国 宋時代・12世紀 東京・増上寺蔵
元版
中国 元時代・13世紀 東京・増上寺蔵
高麗版
朝鮮 朝鮮時代・1458年 東京・増上寺蔵
幕末に増上寺へ奉納された破格の羅漢図
狩野一信筆《五百羅漢図》
江戸時代・19世紀 東京・増上寺蔵
幕末の絵師、狩野一信(1816~63)が晩年におよそ10年をかけて挑んだ羅漢図の大幅。羅漢の日常や神通力、仏教世界の様々を、西洋画法も用いながらエネルギッシュに描き出している。全100幅のうち12幅を見ました。
第24幅《六道 地獄》
《仏涅槃群像》
江戸時代・17世紀 香川・法然寺蔵
香川・法然寺の三仏堂(涅槃堂)にある、壮大なスケールで立体化された等身大を上回る釈迦の涅槃像と、それを取り囲んで嘆く羅漢、天龍八部衆、動物たち。その造像は高松藩初代藩主松平頼重(1622~95)が京都の仏師を招いて造営したもので、他に類を見ない。
撮影可能だったので、細かく撮ってみました。
後(左)
後(中央)
後(右)
前(右)
前(中央)
前(中央)
前(中央)
前(左)
エピローグ
最後に浄土宗本山の紹介がありました。総本山知恩院(京都)の下に七大本山があり、増上寺(東京)、金戒光明寺・百萬遍知恩寺・清浄華院(京都)、善導寺(福岡)、光明寺(神奈川)、善光寺大本願(長野)が挙げられます。
ミュージアムショップでお菓子を購入。全部で4,000円少し切ったぐらいだったので、図録を買った方が良かったかも。
1点目は《仏涅槃群像》を形どった「らくがん」。大きくて食べごたえありそう。
2点目はクアトロえびチーズ。箱の表に国宝《阿弥陀二十五菩薩来迎図》が描かれていて、パッケージ代が高そう。
3点目は法然上人のお言葉焼き菓子。
中に紙が入っているので要注意。「往生のためには念仏第一なり」は、歴史の教科書にも出てきた名言です。
会期の始めの方に行ったので、熱心に見ている人が多く、静かで列の流れがゆっくりでした。京都国立博物館は12月1日(日)まで。その後、九州国立博物館に巡回します。