12月3日(日)東福寺。
臥雲橋は大混雑。
紅葉はまだ見頃でした。
向こうに見えるのは通天橋。ここからの紅葉で満足できなければ、有料で見るしかありません。
参道を歩いて月下門を通過。境内にある案内板を読みました。以下、その内容です。
東福寺は「恵日山」と号し、臨済宗東福寺派の大本山です。藤原道家が嘉禎2年(1236)東大寺、興福寺と並ぶ大寺の建立を発願して「東福寺」と名付け、禅僧円爾弁円(聖一国師)を開山に招いて、建長7年(1256)に完成しました。
その後火災を受けたが、室町初期に道家の計画通りに再建され、京都五山の一つとして栄え、多くの伽藍、塔頭が建ち並び、兵火を受けることもなく明治に至りました。
明治14年(1881)に惜しくも仏殿、法堂など中心部を焼失したが、今なお堂々たる中世禅宗の寺観を保っています。
今回のお目当ては、法堂内にある《大涅槃図》。
東福寺涅槃会の本尊として、応永15年(1408)に吉山明兆(1352~1431)によって描かれた涅槃図です。縦11m、横6mと巨大なため、京都国立博物館では大きすぎて展示できなかったとか。
令和の大修理を経て公開された《大涅槃図》。亀裂や折れが目立たず、表具も新調されて色鮮やか。広いお堂にふさわしい立派な作品です。長椅子に座ってガイドを聞きました。以下、その内容です。
図様は釈迦が右脇を下にして、8本の沙羅双樹の樹木に囲まれた台に横臥しています。蒼い夜空に白い満月。沙羅双樹の間には白雲がたなびき、釈迦が涅槃に入ったインドのクシナガラを流れる抜堤河の西岸の河波が描かれています。
釈迦の周囲には釈迦の臨終の報を聞いて菩薩・天部・阿羅漢、さらにその下方に在家信者、最下段には動物が多く馳せ集まり、釈迦の死にあたり悲鳴・慟哭している様子が描かれています。
また画面下方には涅槃図には珍しい猫が描き込まれています。制作中、猫が絵具を口に加えて持って来た事から、感謝の気持ちを込めて描いたそう。
大涅槃図が掛けられている法堂は、東福寺住持が一山の僧侶たちに説法をする場です。現在の法堂は昭和9年(1934)に再建されたもので、天井には堂本印象(1891~1975)によって《蒼龍図》が描かれました。
印象が使った筆の展示がありました。印象は《蒼龍図》をわずか17日間で仕上げたと言います。作品の隅に、納得した作品に入れる「恒世 印象」というサインも入っていました。
《水磨様》は、聖一国師が宋の国から持ち帰った巻物「大宋諸山図」(重要文化財・東福寺蔵)の巻末に描かれた二階建ての水車の図をもとに、静岡市で制作された模型です。
茶や麺を製造するため、水車を動力源として製粉するための、「搗く」「挽く」「振るう」の3つの動作が連動的に機能する仕掛けが表現され、製粉プラントのルーツとも言われています。
法堂を出ました。
「毘盧寳殿」の扁額は九条敏子を妃とした賀陽宮恒憲王(1900~1978)の揮毫です。
本尊の釈迦如来立像、脇侍の摩訶迦葉尊者・阿南尊者立像、四天王像は全て京都国立博物館に出張中。
釈迦如来立像の写真が展示されているだけの法堂は、とても寂しいものでした。
次は三門。
現在の三門は応永32年(1425)に完成したもので、昭和27年(1952)に国宝建造物に指定されました。棟高は22m余り、五間三戸の二階二重門、大仏様式を用いた入母屋造りで、禅宗三門としては最古、最大、最優のものと言われています。
三門の上層は仏堂となっており、中央には宝冠釈迦如来像が祀られ、その右手前には善財童子像が、左手前には月蓋長者像が、そして左右八体ずつの十六羅漢像が安置されています。
柱や梁などには、半人半鳥の迦陵頻伽や、頭を二つ持つ共命鳥などが色鮮やかに描かれており、極彩色の世界を作り出しています。
これらの壁画は、東福寺の画僧であった兆殿司こと吉山明兆、およびその弟子である寒殿司こと赤脚子が描いたものと伝わっています。
また、上層正面中央に掲げられた「妙雲閣」の扁額は、室町幕府4代将軍足利義持(1386~1428)公の筆によるものと言われています。その時代のものをこうして見れるのも、すごい事ですね。
2階からの景色は住人のプライバシー保護のため、撮影禁止でした。
このように階段が急なので、足腰の悪い方には厳しそう。
三門を出た後は、通天橋を渡りました。次回その内容を記事にします。