モラヴィアン!ドリーム① | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

10月22日(日)堺 アルフォンス・ミュシャ館。

 

 

11月26日(日)まで開催中の展覧会「モラヴィアン!ドリーム」を見に行きました。今回はアルフォンス・ムハ(1860~1939)の作品を振り返ります。以下の文章は、オーディオガイドから引用しました。

 

 

  第1章 夢のパリ

 

ムハがパリに出てきたのは、1887年、27歳の時でした。19世紀のパリは芸術家を夢見る者たちが集まる街。ムハもその一人です。歴史画家を目指し、学校と制作に励む勤勉な画学生でした。

 

 

ところが突然チェコのパトロンからの援助が打ち切られてしまいます。レンズ豆で飢えをしのぎながら、なんとか挿絵画家として生計を立てていたムハに、パリの女神が微笑みます。

 

 

大女優サラ・ベルナール主演の演劇、「ジスモンダ」のために初めてムハが制作したポスターがパリの人々を魅了したのです。Mucha、ミュシャの名前が一夜にして、パリ中に知れ渡りました。

 

 

その後、印刷会社のお抱えデザイナーとしてあらゆる商業デザインを手掛け、パリの名だたるギャラリーで個展を開くまでになり、名実ともにパリを代表するデザイナーとなります。

 

 

  第2章 覚醒のパリ万国博覧会ー目覚めた先の夢―

 

1900年のパリ万国博覧会は、ムハの活躍の最盛期に開催されました。

 

 

ムハはパリ在住のチェコ人画家の展覧会に出展し、ポスターや会場装飾など自らの才能を万博に捧げます。とくにムハにとって重要な仕事となったのが、ボスニア・ヘルツェゴビナ館の壁画制作でした。

 

 

ボスニア・ヘルツェゴビナ館は40ヶ国以上が参加する中で唯一スラヴ文化を紹介したパビリオンです。ムハは中央ホールの全長約40mのパノラマサイズの壁に、ボスニアの先史時代から近代に至る歴史を一連の物語として描きました。

 

 

当時のボスニアはチェコと同じオーストリア=ハンガリー帝国領、帝国出身でパリで活躍するムハに白羽の矢が立ったのです。もともと教会や公共施設の壁画を飾る歴史画家への夢を抱いていたムハには大きなチャンスでもありました。

 

 

ムハはこの依頼を受けるとすぐにボスニア・ヘルツェゴヴィナに赴き、神話や歴史、自然や風俗を細やかに取材します。この取材でルーツを同じくする南スラヴの人々の生活に向き合ったムハの心には、熱い想いが芽生えます。

 

 

それは、「チェコを含むスラヴ民族の壮大な歴史を描く」という夢でした。忙しくも華やかなパリの夢から目覚めたムハは、ここから画家としての夢、《スラヴ叙事詩》に向かっていくのです。

 

 

  第3章 高まるチェコシックー夢を叶えたい場所―

 

パリ万博以降、ムハはスラヴ民族の歴史《スラヴ叙事詩》制作への構想を巡らせ、故郷への想いがつのっていきます。

 

 

そんな中、1902年の夏、チェコへ帰るチャンスが訪れます。友人の彫刻家オーギュスト・ロダンがプラハで開催される自身の展覧会にムハを誘ったのです。

 

 

すでに巨匠とされていたロダンと、フランスで活躍するムハの帰還は大歓迎を受けます。プラハ、そして東モラヴィアをまわる旅は、お祭りの時期とも重なり、町々で民族衣装を着た人々が二人を迎え入れました。

 

 

しばしの帰郷でチェコの伝統や民族衣装の空気を取り込んだムハは、その後スラヴの人々をモデルにした習作やスケッチを数多く描くようになります。そこには三つ編みに丸顔のふっくらとしたスラヴ人らしい少女像が登場しました。

 

 

表情、仕草、そして民族衣装の細やかな刺繍には、対象に対するムハの注意深い観察眼と卓越したデッサン力が窺えます。

 

 

十数年ぶりに本格的に油彩画も再開し、殺到するパリでの仕事に区切りをつけ、いよいよチェコでの《スラヴ叙事詩》制作が始まりました。

 

 

余談ですが、ムハが《スラヴ叙事詩》制作中の1918年、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊。チェコはチェコスロヴァキア共和国として独立を果たしています。

 

 

ここまで、ウミロフ・ミラーとチェコの民族衣装が撮影可能でした。

 

 

ウミロフはチェコ出身でアメリカを拠点に活躍した音楽家です。ムハは資金調達のため、アメリカに滞在中、ウミロフと共にシカゴ・ボヘミア・アーツ倶楽部の代表として、アメリカのチェコ人芸術普及活動にも貢献しました。

 

 

  第5章 夢を実現したムハ・スタイル

 

ムハがチェコに戻って18年後の1928年。ムハは《スラヴ叙事詩》という20枚の大連作の完成によって夢を叶えます。

 

 

作品はムハが望んだ通り、プラハ市に寄贈され、秋には全20点のうち未完の一作を除く19点を一堂に展示した展覧会がヴェレトゥルジュニ―宮殿で開催されました。

 

 

この時の図録にムハが語ったのは、全人類が理解し合うことへの希望とその一端を担いたいという思いでした。

 

 

ムハは1939年78歳で亡くなる直前まで創作を続けました。その原動力はチェコ、スラヴの団結を超え、人類の平和というさらなる壮大な夢(希望)を持ち続けたことだったのでしょう。

 

 

そしてスラヴの伝統や民族衣装からインスピレーションを得たチェコ時代のポスターは、パリ時代の淡い色彩から一転し、鮮やかな色彩で赤、白、青のスラヴカラーが印象的に使われています。

 

 

  チェコ時代の作品とパリ時代の作品

 

次の作品が撮影可能でした。

 

《イヴァンチッツェの地方祭》1913年

ムハの生まれ故郷イヴァンチッツェで開催される予定だった物産展のために描かれたポスターです。イヴァンチッツェを題材にする時、ムハは必ずシンボルの教会を描いています。

 

 

《カーネーション:四つの花》1897年

花に囲まれている女性像というより、花の擬人像。女性の髪のカールは、葉っぱの形をリンクしています。

 

 

《ユリ:四つの花》1897年

女性の佇まいはすらりとした茎を思わせ、髪の色は花粉と同じ黄色です。

 

 

《バラ:四つの花》1897年

「花の女王」バラ。ただ一人正面を向き、こちらを見つけています。

 

 

《アイリス:四つの花》1897年

バラと対照的なアイリス。垂れ下がる花びらは、女性の伏し目と呼応しています。

 

 

《朝の目覚め:一日の四つの時》1899年

爽やかな空気と温かい日光に包まれ目覚める朝。

 

 

《昼の輝き:一日の四つの時》1899年

青空のもと、きらきら輝く太陽を浴びる昼。

 

 

《夕べの夢想:一日の四つの時》1899年

日が傾く夕方はまどろみ…。

 

 

《夜の安らぎ:一日の四つの時》1899年

夜になると眠りについて一日を終えます。

 

 

パリ時代の作品は洗練された感じ、チェコ時代の作品は内に秘めた情熱や泥臭さが感じられました。

 

 

今日はここまで。次に続きます。