京都国立近代美術館「令和5年度 第2回コレクション展」より、「G.関東大震災から100年 池田遙邨《大正12年9月関東大震災》の全貌」を振り返ります。以下の文章は展示パネルから引用しました。
池田遙邨(1895~1988)は、父の故郷である岡山県で生まれ、明治43年(1910)に大阪へ行き、洋画家の松原三五郎の天彩画塾で学びました。しかし、小野竹喬との出会いにより日本画家へと転向し、大正8年(1919)に竹内栖鳳の竹杖会へ入塾しました。
同年の第1回帝展に入選し、帝展や新文展、日展などを中心に活躍し、京都市立絵画専門学校や主宰した画塾「青塔社」において後進の育成に尽力しました。
独特のアングルで風景を切り取り、愛らしい姿の動物を登場させる作品のほか、晩年は種田山頭火に私淑し、山頭火の俳句を絵画化した「山頭火シリーズ」に取り組んで、昭和62年(1987)に文化勲章を受章しました。
遙邨が栖鳳門下となって4年が経った大正12年(1923)9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震源とする関東大震災が起こりました。地震の規模はマグニチュード7.9と推定されています。死者・行方不明者は10万人を超え、11万棟近くの家屋が全壊しました。
この震災では特に火災による被害が大きく、全焼した建物は21万棟に及び、約10万人の死者・行方不明者のうち約9万人は火災によるものと報告されています。
関東大震災が起こってから20日後、遙邨は洋画家の鹿子木孟郎に誘われて被災地へ向かいました。約1か月にわたった取材旅行で描いたスケッチは400点にのぼるとされています。
「これ程一生懸命であったことは後にも先にもなかった」
これはこれらのスケッチを基にして描かれた《災禍の跡》(倉敷市立美術館蔵)に対する遙邨の言葉です。この作品は震災翌年の第5回帝展に出品され、残念ながら落選しますが、震災による甚大な被害と悲惨さをいまに伝えています。
写真を撮れば早いものをわざわざ絵にするのもどうかと思いましたが、やはり本作の制作過程で、遙邨は批判や嘲笑を受けて孤独な日々も過ごしたようです。しかし、そうしたさまざまな経験は遙邨を画家として大きく成長させました。
展示物は105点ありました。同じ題名でも風景が微妙に違うため、3本の動画にしました。
横浜編
東京編①
東京編②