確定申告の後は切手の大量交換で郵便局巡りをしていて、ここ1ヶ月どこにも行けず。
そんなわけで今回は、昨年末あべのハルカス美術館で見た展覧会「アリスへんてこりん、へんてこりんな世界」を振り返ります。
このアリス展は、英ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館発「アリス」の文化現象を辿る初の大規模展。
第1章は従来のアリス展で、『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』に関する写真や原画を見ました。
『不思議の国のアリス』は、ルイス・キャロル(1832~1898)が、知人の娘アリス・リドゥル(1852~1934)とその姉妹のために即興で創作したお話がもとになり、1865年に誕生した物語。
テムズ川の景色など現地の写真を見ていると、物語が誕生した時の様子をリアルに感じ取れます。
ルイス・キャロルの本名は、チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン。オックスフォード大学クライスト・チャーチの学寮で数学を教えていて、アリスとはその頃に知り合いました。
アリスはオックスフォード大学の学寮で様々な学者や芸術家と交流をもち、文才には乏しかったが、音楽、絵画、木彫りに才能を示したそう。
『不思議な国のアリス』の成立には、アリスの他、長女ロリーナ(1849~1930)と三女イーディス(1854~1876)が関わりました。
三姉妹はとても仲が良く、学業終了時には共にグランド・ツアーを試みています。絵が得意なアリスは、家庭教師だったジョン・ラスキン(1819~1900)の評価を仰ごうと、旅先で多数のスケッチを残しました。
その後、ワイト島のボヘミアン芸術家たちと交流し、ヴィクトリア女王にも謁見。やがて裕福なクリケット選手レジナルド・ハーグリーヴズと結婚し、3人の息子を設けました。
ドジソンとは、大人になってからも連絡を取り合っていたそうです。
挿絵は、風刺漫画誌『パンチ』で数多くの風刺漫画を手がけたジョン・テ二エル(1820~1914)が担当。
続編『鏡の国のアリス(1871)』では、テ二エルの挿絵がアリス像を定着させることになり、縞模様の靴下と黒いヘアバンドがアリスファッションとして取り入れられるようになりました。
ふたつの『アリス』が成功した一因は、ドジソンが鋭い洞察力でヴィクトリア朝の社会を描いたことにあると評されています。
彼は演劇好きで芸術の後援者でもあり、ラファエル前派の画家ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829~1896)や、女優のエレン・テリー(1847~1928)など幅広い交友関係を築いていました。
また、ふたつの『アリス』には、児童文学への注目が高まりつつあった当時の風潮を受けて書かれたという側面もあります。
未知の場所で少女が冒険する物語は、当時変わりつつあった女性の権利や教育に対する考え方とも一致するもの。
ヴィクトリア朝終盤には、ふたつの『アリス』はヨーロッパから日本まで、世界中で翻訳出版されるほどの人気になっていました。
日本では、明治時代に『アリス』の翻訳が始まり、1970年代には「アリスブーム」が巻き起こります。
特にそのブームを牽引し、現代日本のアリス像にも影響を与えたのが、金子國義(1936~2015)です。
彼は1974年に伊オリベッティ社、1994年に新潮社、2000年にメディアファクトリー社で『アリス』の挿絵を手掛けました。
子供の頃、わくわくしながら読んだ『アリス』シリーズも、こうして学術的に見ると奥深いですね。第2章に続きます。