神戸ファッション美術館の会期は8月29日(日)に終了しましたが、マイペースに更新を続けます。
ビックリハウス
1975年に創刊された「ビックリハウス」は、読者参加型の誌面づくりが人気を呼び、有名無名問わず様々な才能が集まったサブカルチャー誌です。
原田治はペーター佐藤とともに創刊準備の段階からビジュアル面で協力し、イラストを提供するほか、
「明石町先生」のペンネームで、編集者や関係者の似顔絵マンガを連載しました。
同誌をきっかけに知り合った仲間とのつながりが、やがて「パレットくらぶ」の活動へと発展することになります。
パレットクラブ
ペーター&オサムスタジオの名義で「an・an」の頃からともに仕事をしていたペーター佐藤、その「an・an」創刊に参加していた新谷雅弘、「ビックリハウス」を通じて知り合った安西水丸、秋山育。
気の置けない仲間たち5人が1979年に作品展を開くことになり、グループに名前をつけようと、ペーター佐藤が命名したのが「パレットくらぶ」でした。(のちに秋山育は脱退。)
以下、原田治の出品作です。
絵皿(1979)「NUDE画展 パレットくらぶ」に出品
岸田劉生の麗子像へのオマージュ作品(制作年不詳)
色紙(1983)
「パレットくらぶまつり《色彩の美》展」に出品
久保田万太郎の句を引用した色紙(1983)
「パレットくらぶまつり《色彩の美》展」に出品
作品はバラエティーに富んでいて、オールラウンドのイラストレーターとしてのポリシー(展覧会のテーマに応じて自在にスタイルを変える)が伝わってきました。
1983年からは京都でイラスト教室を始め、メンバーが毎週交代で講師を務めました。その後1997年には築地の生家を建て直し、パレットクラブ・スクールを開講。今日に至るまで多くの才能を輩出しています。
太平洋上に浮かぶアトリエ
1985年、原田治は多忙を極める中で、東京から船で通える距離の島に、自ら設計してアトリエを構えます。
1982年に上梓した美術エッセイ集「ぼくの美術帖」を執筆するなかで、若き日の画家の夢がよみがえり、再び抽象絵画の制作に打ちこみたいという、強い欲求にかられたためです。
仕事と都会から完全に切り離された地にアトリエを作るにあたり、最初に意識したのは、デザイナーのチャールズ&レイ・イームズ夫妻のアトリエ。
アメリカのミッドセンチュリーを愛する、原田治の趣味と美意識がつまった空間が生まれました。
アブストラクト
還暦後は、1年の半分ほどを島のアトリエで過ごし、好きな抽象絵画を描くことに時間を費やしていた原田治ですが、その作品を人に見せることはありませんでした。
依頼に応じて描くイラストレーターの仕事とは明確に区別し、むしろ対極にあるものとして、自分のためにのみ描くことを信条としたからです。そのため、題名をつけることもありませんでした。
ただ唯一の例外は、「Le Cargo Noir(黒い貨物船)」と題された一連の作品です。ラウル・デュフィの晩年の連作にインスピレーションを得た作品で、抽象化された貨物船のシルエットが描かれています。
つづく