今回は、神戸ゆかりの美術館で見た「GIGA・MANGA―江戸戯画から近代漫画―」より、「1-4 江戸戯画で多用された表現方法」と「浮世絵マメ知識」を振り返ります。
1-4 江戸戯画で多用された表現方法
吹き出し
「心の内」や「言葉によるメッセージ」を伝える表現。当初は胸から発するものが多かったが、江戸時代末期には現代と同じく口から発する表現も出てきた。
歌川芳藤(1828-1887)筆
「心夢吉凶鏡(1867)」
男女を影絵で描くのは、この当時に流行したスタイル。本作は、影で描かれた男女のそれぞれの思いや欲望を、耳、目、鼻、口、色の欲として、吹き出し中の絵で伝えている。
歌川国芳(1798-1861)筆
「阿沙丸後二景清 十二代目市村羽左衛門、法作後二天日坊 四代目中村歌右衛門、内海 三代目藤川花友(1849)」
天一坊事件を題材にした歌舞伎「詞花紅成盛」の一場面。鳥羽の湊に宿泊した法作(天日坊)は宿で名刀を奪い、大坂でその刀を使い、自らを徳川吉宗の隠し子と偽り、悪事を働くが、江戸で大岡越前守に見破られ処刑されてしまう。図では、天日坊の心の内を吹き出しで表現し、野望を烏で暗示している。
菊水茂広(生没年不詳)筆
「子かへしをする人の地獄図(1862)」
コマ
コマは、仏教の教えを説く手段として古くから使われていた表現。『北斎漫画』十遍(1819)では4コマ漫画も描かれ、「新板当世一口ばなし(1868)」のような12コマ漫画も登場している。
歌川広重(1797-1858)筆
「教訓人間一生貧福両道中之図(1843-47)」
人間の一生は旅に似ている。道中をよく考え慎重に旅すれば、晩年は子孫に財を残せるほどの成功者になれる、と説いている。
作者不詳「往生要集(17世紀頃)」
歌川国芳(1798-1861)筆
「道化武者(1858)」
歌川芳藤(1828-1887)筆
「婦人一代出世双六(1847-52)」
女性版「人生出世双六」。本作は上下続きの上半分である。図版には無い下半分の「婦り出し」からスタートし、子守女、門付け、辻君などになり、茶屋女、機織り女、三味線師匠、踊りの師匠などに出世していく。最後は御奥様であがり、という形で当時の女性の出世道を描いている。
光線の表現
弘化年間(1844-48)頃から暗夜の中の明かり(光線)を表現した作品が登場する。この線画表現は、画面に臨場感をもたらしている。
歌川芳虎(生没年不詳)筆
「鎌倉星月夜(1843-47)」
鎌倉幕府の将軍源頼朝と重臣たちの会議を盗み聞きした当摩三郎がたちまち捕えられた図。明かりに映し出された当摩と取り押さえる面々、そして要人たちの緊張した姿。故事を光という表現で印象的に描いている。
作者不詳「道化狂けん尽し(1865-68年頃)」
変形の戯画
戯画浮世絵は大判錦絵(およそ縦38cm×横26cm)の絵1~3枚で表現されるのが一般的だが、「踊形容楽屋之図/踊形容新聞入之図」のような三枚続を上下に配した作品もある。また三枚続を左右に配した六枚絵もある。
歌川国貞(1786-1865)筆
「踊形容楽屋之図/踊形容新聞入之図」
歌舞伎の舞台裏(楽屋)を6枚の大画面を使って描いている。稽古をする役者、かつらを手入れする人、鏡の前でかつらを被る役者、階段を下りて舞台に向かう役者など、江戸時代の芝居小屋の雰囲気が感じられるユニークな作品。
浮絵
浮世絵を含む日本の絵画は、遠近法のない平面的な表現で描かれてきたが、享保年間(1716-36)頃から、西洋画法の影響を受けた透視図法による遠近表現の「浮絵」の表現が登場した。
歌川豊春(1735-1814)筆
「浮絵鼠嫁入図(1781-89年頃)」
ねずみの夫婦が大事な一人娘の婿さがしに奔走し、ついに話がまとまるという昔話。本作は嫁入図であり、同時に浮絵として描かれている点が珍しい。
葛飾北斎(1760-1849)著
『北斎漫画』三編(1815)
北斎による線遠近法表現の指南。天を3分の2、地を3分の1とする構図の取り方が記されている。
浮世絵マメ知識
浮世絵とは?
「浮世」という言葉は、江戸時代には、現代風、当世風という意味があり、同時代の庶民生活などを描いた絵を指すようになりました。絵師が直接描いた肉筆画だけでなく、木版摺の版画もあります。
版画には、「富嶽三十六景」のような一枚ものの版画と、『北斎漫画』のような本の形の版本があります。木版摺の技術の発展により、大量に印刷することができ、庶民に広まっていきました。
錦絵とは?
多色摺木版画を指します。浮世絵版画は、はじめは墨摺1色でしたが、その後、2~3色の色版を加えて摺るようになり、技術の向上により、10色以上の作品も制作されるようになりました。色を多用した、錦の布のように美しい絵というのが本来の意味です。
摺物とは?
広い意味では版木を用いて摺ったものですが、商業目的のために版元から刊行されたものではなく、私的な配り物のための木版画を指すこともあります。
江戸時代に、趣味人がお金を出して絵師に絵を発注して制作し、年賀状のように知人に配ったりしました。俳諧を添えた俳諧摺物、狂歌を添えた狂歌摺物、暦の要素を取り入れた絵暦などがあります。
浮世絵版画は絵師が一人で作ったのか?
江戸時代の浮世絵版画は、プロデューサーの版元、絵を描く絵師、版木を彫る彫師、その版木で摺り上げる摺師による分業体制で生産されました。絵師に比べて、彫師や摺師はその経歴等が分かる人物はほとんどいません。
初摺とは?
浮世絵版画は、木版摺のため多く摺っているうちに版木が摩耗したり、欠損したりして、描線のシャープさが失われていきます。また、版木が別の版元に転売されることもあり、その場合は色板は転売されずに再度制作されることもありました。
そのため、最初に1日で摺ることができると言われる200枚が初摺と呼ばれています。この段階では絵師が摺の監督をするとも言われ、初摺は絵師の意図を反映したものであり、貴重と言われています。
錦絵はいくらで売れたか?
時代や種類によって異なりますが、文化2年(1805)では、小さなサイズの役者絵が8文、大判(「富嶽三十六景」と同じサイズ)の錦絵が20文でした。幕末でも25文から30文強だったと言われています。
大判の錦絵でも300円前後と意外に安かったよう。それにしても、1日200枚を1枚ずつ手作業で摺るって。江戸時代の労働時間は、現代より長かったのかもしれません。