GIGA・MANGA③ | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

今回は、神戸ゆかりの美術館で見た「GIGA・MANGA―江戸戯画から近代漫画―」より、「1-3 江戸のヒットメーカー・歌川国芳と諷刺画」を振り返ります。

 

 

1-3 江戸のヒットメーカー・歌川国芳と諷刺画

 

江戸時代後期になると、江戸を中心とした町人文化が開花。文化・文政の時代(1804-30)に最盛期を迎えたため、「化政かせい文化」とも呼ばれます。

 

 

天保年間(1830-44)に入ると、老中水野忠邦の天保の改革により、浮世絵の取り締まりなど、幕府による理不尽な弾圧が行われました。これに反発した人は多く、禁令の網をかいくぐって出版された、幕府を諷刺する浮世絵は人気を呼びました。

 

 

嘉永6年(1853)のペリー来航など、幕末の動乱期において諷刺の題材は事欠くことなく、特に歌川国芳の諷刺画は人気が高く、次々とヒットしました。そしてヒット作は別の絵師によってパロディ化されたりします。

 

 

また当時、浮世絵や絵草紙は版行(出版)の際、改名主あらためなぬしの検閲を受けなければならず、合格すれば改印が捺される仕組みでした。

 

 

絵師や版元は知恵をしぼって諷刺性をぼかし、役人たちに気づかれぬ表現で商品として流通させていました。しかしその後、幕府を批判したものだと気づかれ、発禁処分となった例もありました。

 

 

歌川国芳(1797-1861)

 

葛飾北斎(1760-1849)と並ぶ江戸の人気浮世絵師。一勇斎、朝桜楼、採芳舎とも称しました。豪傑を描いた武者絵で人気を博し、「武者絵の国芳」とも呼ばれました。

 

 

また美人画や役者絵のほか、西洋銅板画の表現を取り入れた風景画や、反骨精神あふれる諷刺画、ユーモアの富んだ戯画にすぐれ、幕末を代表する絵師でもあります。国芳の諷刺画は、幕府内部の抗争を描いていると評判で、1万枚も摺られた作品もありました。

 

 

歌川国芳筆「源頼光公館土蜘蛛作妖怪図みなもとのよりみつこうやかたつちぐもようかいをなすず(1843)」

天保改革に対する諷刺画。高枕にもたれているのは将軍徳川家慶。その後ろで衣をかけようとするのが土蜘蛛に擬せられた鳥居耀蔵。その前で膝をついているのが改革を主導した水野忠邦である。背後の様々な妖怪は禁止令や倹約令を象徴的に表している。

 

 

歌川国芳筆「浮世又平名画奇特うきよまたべいめいがのきとく(1853)」

歌舞伎役者を大津絵のキャラクターに見立てたものだが、幕府の重臣を諷刺したものという評判が庶民の間で立ち、売りに売れた。毎日1600枚も摺る日が続き、延べ1万枚以上売れたという。後に発禁となり、版木は没収された。

 

 

歌川国芳筆「ねむけざまし(1847-52)」

 

 

歌川国芳筆「心学稚絵得しんがくおさなえとき(誠と嘘)(1842)」

子どもたちに絵を用いて分かりやすく道徳を教える連作の一つで、柱や壁に貼り、日常の心がけにしたもの。「八百万の神の霊魂を信じるより、誠の心を持つ方が大切」と聞き、男は敵わないとばかりにひっくり返っているようだ。誠実で嘘をつかない心を持とう、と教えている。

 

 

歌川国芳筆「道外浄瑠璃尽どうけじょうるりづくし けいせゐ返魂香はんごんこう昔八丈むかしはちじょう(1855)」

 

 

幕末期の諷刺画

 

嘉永6年(1853)、アメリカのペリー提督が来航し開国がもたらされて以来、倒幕運動が激化していきました。そうした中で、国芳だけでなく、多くの絵師たちによって諷刺画が描かれたのです。

 

 

歌川芳虎(生没年不詳)筆「道外武者御代どうけむしゃみよ若餅わかもち(1849)」

徳川将軍家を諷刺したもの。手前左の明智光秀、手前右の織田信長が餅をつき、後ろ左の豊臣秀吉が餅をこね、3人が作った餅を後ろ右の徳川が楽して食べている。出版後に徳川諷刺と分かり、発禁処分となった。

 

 

金堂(生没年不詳)筆「三職よろこび餅(1855)」

安政大地震の直後に出たなまず絵の一つ。地震の復興で儲けた職人たちが鯰に感謝している。大ヒットした作品「道外武者御代の若餅」のパロディでもある。

 

 

作者不詳「当時流行諸喰商人尽とうじりゅうこうしょしょくしょうにんづくし(1868)」

山くじらとは、猪肉あるいは獣肉全般のこと。豚は「あんまり出て歩くと皆子どもが嫌がるからよそう」と言う。傍の子どもは菊柄の着物で天皇を暗示させる。左上の武士と人足との「どこを見ても荷物を運ぶてなァ」「何でも本所の親類(勝海舟の暗示か)にあづけるがよかろう」という会話から、慶応4年(1868)春の江戸開城を暗喩したものの可能性がある。徳川慶喜は豚肉を好んだことから「豚一殿」と呼ばれた。

 


戊辰戦争諷刺画 その1

 

倒幕運動が激しくなり、慶応3年(1867)、ついに幕府は政権を朝廷に返上する大政奉還を行いました。そのことにより、天皇を味方にした新政府軍と、政権の復活を目指す旧幕府軍との戦い(戊辰ぼしん戦争:1868-69)が勃発したのです。

 

 

作者不詳「夏の夜虫合戦(1868)」

虫を擬人化して戊辰戦争を諷刺した図。右が新政府軍、左が旧幕府軍。新政府軍は「蝶々(長州藩)」が先頭を切り、「蜂(薩摩軍)」が続く。「蛍(天皇)」「蜘蛛(有栖川宮)」「かつぶしむし(土佐藩)」「かたつむり(熊本藩)」などが見える。旧幕府軍も負けじと「とんぼ(会津藩)」が飛び込んでくる。他に「きりぎりす(桑名藩)」「いもむし(庄内藩)」など。左上の草むらには「かわず(徳川慶喜)」「鈴虫(天璋院)」「松虫(和宮)」らが見える。

 

 

作者不詳「おそろししのけだもの(1865-68)」

幕末は世相を反映した諷刺画が多数登場した。作品名は「恐ろし」と「獅子・志士」をかけている。見世物の籠細工の獅子は新政府軍の諸藩が合体した姿である。獅子の本体の籠目は薩摩藩を指す。鼻の三つ団子が長州藩、眉間の柏は土佐藩、目は釘抜紋の岡山藩、背中の井桁は彦根藩を指す。本作の右上で会津藩が棒を持って番をしている。見世物の口上を述べるのは徳川慶喜。それを見物するのは江戸庶民である。

 

 

作者不詳「月見之たわむれ(1868)」

 

 

隅田了古すみだりょうこ(生没年不詳)筆「道外西遊記どうけさいゆうき(1868)」

 

 

作者不詳「茶番狂言忠臣蔵ちゃばんきょうげんちゅうしんぐら(1868)」

 

 

作者不詳「たぬきたわむれ(1868)」

狸たちが八畳敷(睾丸きんたまを広げる)の妖術を使って人間を打ち据えている。僧衣の茂林寺文福狸の前には借用証文、後ろには佐渡の同三狸どうさんたぬきと金袋が見える。同三狸は団三郎狸ともいい、困っている人間に金を貸したという伝説がある。睾丸の下敷きになっているのは座頭や盗人たち。幕末期に金貸しで儲けたり、荒稼ぎした人々への諷刺かもしれない。左上にはことわざ「隣の疝気せんきを頭痛に病む」を添える。狸の八畳敷と疝気をかけた洒落だ。

 


戊辰戦争諷刺画 その2

 

子供遊び絵は、戊辰戦争における両軍の姿を、どちらが現在優勢か子供の遊びに例えて描いた作品群。

 

 

作者不詳「子供遊勇当独楽こどもあそびいさみあてごま(1868)」

新政府軍と旧幕府軍との戦いの図で、旧幕府軍が優勢であると主張する絵。当て独楽あてごま遊びで長州(新政府軍)が庄内(旧幕府軍)に負けている。

 

 

作者不詳「子供遊端午のにぎわい(1868)」

 

 

諷刺瓦板

 

瓦板かわらばんは、江戸時代において大事件や流行などを伝える新聞のような役割を果たしました。文章だけでなく絵入り、諷刺画入りのものもあります。

 

作者不詳「節分(1860)」

 

 

作者不詳「近世やかま獅子退散図(1868)」

右の獅子は今々獅子いまいまししで、徳川慶喜を指す。左の獅子は馬鹿馬鹿獅子ばかばかしし、別名、怖獅子おそろししとあり、松平容保を指す。この二獣が近年乱暴激しく万人を苦しめ、とあり、庶民にとってはいずれも迷惑な存在だった事が伺える瓦板である。

 

 

感想


絵がユーモラスで漫然と見ただけでも充分に楽しめました。そして後で解説を読み返して、一見たわいもない絵にちゃんとした意味があった事に驚きました。江戸時代はあからさまな幕府批判が禁じられていたとの事。絵師たちも自分の命を守るため、知恵を絞っていたのが伝わってきます。