GIGA・MANGA② | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

今回は、神戸ゆかりの美術館で見た「GIGA・MANGA―江戸戯画から近代漫画へ―」より、「1-2 漫画の源流『北斎漫画』」を振り返ります。


 

1-2 漫画の源流『北斎漫画』


当時流行した読本とうほんの挿絵の多くを手がけ、名を広めていた葛飾北斎(1760-1849)は、弟子たちに自分の描法を教えるため、様々な工夫を凝らした絵手本を出版します。なかでも最もヒットしたのが『北斎漫画』と題した15冊からなる絵手本です。

 

 

文化9年(1812)、名古屋の門人、牧墨僊まきぼくせん宅に滞在して描いた300図をもとに『北斎漫画』初編が出版されました。その後人気を博し、二編から十編が刊行されて完結しましたが、さらに続巻が計画され、最後の十五編は、北斎の死後、明治になってから出版されています。

 

 

描かれた内容は、江戸の風俗から動植物、建物、諸道具など、森羅万象、ありとあらゆるものが約4,000図描かれています。ここでの「漫画」は北斎が漫然とえがいたものという意味で、現在の漫画の意味とは異なります。

 

 

しかし、これらの中に、戯画的表現、諷刺画的表現、コマ表現、吹き出し表現、キャラクター性など現在の漫画の原点ともいえるものが含まれており、漫画史上、注目に値する作品といえます。

 

 

以下、展示室で見た『北斎漫画』を「初編」から順に並べました。

 

「初編(1814)」より「幽霊に驚く」

様々な人物が描かれた中、幽霊に驚いてのけ反る男性がいる。妖怪や怪物といった刺激的で怖く、人間を諷刺したナンセンス漫画に分類される表現が見てとれる。

 

 

「二編(1815)」より「地獄」

死者の生前の善悪を映し出す浄瑠璃の鏡の横で、閻魔大王が二人の死者の裁きをしている場面が描かれている。下には釜ゆでの火を燃やす鬼や、これから裁きを受けるのか、女性や子どもたちもいる。二人はこの後、釜ゆでにされてしまうのか。そんなドラマを想像してしまう図も『北斎漫画』には多い。

 

 

「三編(1815)」より「雀踊り図」

雀踊りを踊る人物を連続絵で紹介している。北斎は筋肉の動きを分析し、動く体を的確にとらえて表現している。パラパラマンガのように各ポーズを連続で動かすと、滑らかな動きとして表現され、現在のアニメーションに通じるともいえる。

 

 

「四編(1816)」より「浮腹巻うきはらまき

浮腹巻は実際に商品化されたかは不明だが、腹に巻ける浮袋をつけて水上でのんびり楽しんでいる。左には浮袋で浮かぶ人もいる。

 

 

「四編(1816)」より「ガラス瓶で海中散歩」

ガラス瓶の中に入って水中を覗く人もいる。想像力豊かで、見る人に夢を抱かせる魅力的な絵である。

 

 

「五編(1816)」より「猿田彦太神さるたひこだいじん天臼女命あめのうずめのみこと

誰もが知っているキャラクターが、ドラマ性の担い手になっている。『古事記』や『日本書紀』に登場する「猿田彦太神」「天臼女命」が御幣を持っていて、神社の神主や巫女のように見えるのもユーモラスである。

 

 

「六編(1817)」より「格闘のための手の使い方説明図」

半丁を5コマに分割し、格闘のための手の使い方を描いた。「むなづくしとるてをはづす」「むなづくとるてをはづす」「ぞくにいふせんりびき」「てをしめあげる」「こたへてしめさせぬかたち」。胸尽むなづくしとは胸ぐらのこと。千里引きは柔術などに見られる指関節を極める技である。

 

 

「七編(1817)」より「芭蕉之像」

江戸時代から既に名の知られていた俳人、松尾芭蕉の肖像である。僧衣を着て頭巾を被り、杖を持つ老人を見れば、誰もが松尾芭蕉と分かったことであろう。

 

 

「八編(1818)」より「無礼講」

烏帽子を被ったふんどし姿の人物が、様々な恰好をしている。裸にすることで的確な筋肉表現が必要となる。また、体の動きにはユーモラスなものも多く、見ていて飽きない図である。

 

 

「九編(1819)」より「士卒英気養図しそつえいきをやしなうず

太った人物が風呂に入り、料理をして食事をとっている。コマを使わずに戦陣に赴く武士の様子を描いたストーリー漫画ともいえる表現方法である。

 

 

「十編(1819)」より「芸競べ図」

様々な芸を描いた4図である。紐で吊り下げた柿を手を使わずに食べる「釣柿つりがき」、煙草の煙で文字を表現する「煙草曲呑きょくのみ」、饅頭を投げて口で受けて食べる「曲喰きょくぐい」、最後のオチが「無芸大食たいしょく」。4コマ漫画の原始的な形とも評価できる。

 

 

「十一編(1823-33)」より「夢」

略図で描かれた人物の中に、布団をかけて寝ている男性がおり、おいしそうな食べ物の夢を見ているようである。吹き出し表現は江戸時代にもあったが、胸や口や目などから発するものであった。ここで見られるものは珍しく頭から発していて、人間の思考が頭で行われているという合理的な表現である。

 

 

「十二編(1834)」より「屎別所くそべっしょ

「屎別所」とはかわやのことで、当時の支配階級の武士が用を足している外では従者が鼻をつまんでいる。武士も同じ人間であるという、権力諷刺画ともいえるもので、版本という商品の中にあることが画期的であった。

 

 

「十三編(1849年頃)」より「銃眼締てっぽうわな

「銃眼締」は図のように、熊を仕留める装置。巣穴から出てきた熊が仕掛けの餌に食いつくと、木に石と紐で設置された銃の引金が引っ張られて、熊めがけて発砲する。この後の熊がどうなったのか、想像をかき立てる絵である。

 

 

「十四編(1849年頃)」より「風下ふうかの獅子」

ライオンを基にした伝説上の動物である獅子は、日本でも画題としてなじみ深い。「風下の獅子」として牡丹の花と毛並みが風でなびく厳しい環境の中、じっと耐える獅子は、生の厳しさを考えさせるかのようである。

 

 

葛飾北斎について


「富嶽三十六景」で有名な江戸の浮世絵師。数え20歳で勝川春朗の名で浮世絵界にデビューし、宗理、北斎、戴斗、為一、卍などの画号を使用した。

 

 

90歳で亡くなるまで絵の道を追求し、多くの作品を残した。「富嶽三十六景(1831-34)」などを描いて、浮世絵に風景画のジャンルを確立させたと評価されている。

 

 

常に自分の絵に満足せず、さらなる上達を求めて努力し続け、100歳を過ぎれば一点一画が生きているような絵を描くことができるだろうと、自ら絵師としての気概を述べていた。

 

 

人生50年の時代に人生100年を宣言した北斎。生涯で転居を93回したという話もあり、きっと類い稀なバイタリティーの持ち主だったに違いありません。