GIGA・MANGA① | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

神戸ゆかりの美術館で開催中の「GIGA・MANGA―江戸戯画から近代漫画へ―」は、江戸中期から昭和戦中期まで、約230年間の漫画の歴史をたどる展覧会。3部構成で、途中まで撮影OKでした。

 

 

今回は「第1章 商品としての量産漫画の誕生」より、「第1節 『鳥羽絵』本の登場と様々な戯画スタイル」を振り返ります。

 

 

第1章 商品としての量産漫画の誕生

 

筆や墨が発明されると、人々は板・竹・壁などに、いたずら書きをして遊びました。やがて「絵師」という職業が生まれ、彼らの描いた絵巻物の中に戯画が登場します。

 

 

例えば、平安後期の僧、鳥羽僧正そうじょう覚猷かくゆう(1053-1140)が描いたとされる「鳥獣人物戯画」、同時代の絵仏師えぶっし定智じょうち(生没年不詳)が描いたとされる「放屁ほうひ合戦かっせん」など。

 

 

しかし、こうした戯画絵巻を見ることができたのは、貴族・僧侶・武将など上流階級の人々だけで、絵師たちは彼らから注文を受けて描いていました。

 

 

戯画が庶民にも親しまれるようになったのは、江戸時代中期(18世紀以降)、印刷出版文化が発達してからのことです。

 

 

葛飾北斎や歌川国芳など、人気絵師が次々と登場した時代であり、また、幕府による改革の失敗、行き過ぎた倹約や飢饉による一揆が続いた時代でもありました。

 

 

そうした中から政治や世相を批判する「諷刺」を込めた戯画が多数登場し、民衆の人気を集めました。

 

 

1-1 『鳥羽絵』本の登場と様々な戯画スタイル

 

鳥羽絵とばえ

 

戯画に長じたと伝える平安後期の僧、鳥羽僧正覚猷にちなんだもの。江戸時代、日常生活を軽妙なタッチで描いた墨書きの戯画です。手足が長く、目が点の人物表現が特徴的。今日の漫画にあたり、大坂の松屋耳鳥斎にちょうさいらの手によって盛んになりました。

 

竹原春潮斎しゅんちょうさい(?-1800)筆「鳥羽絵あくびとめ(1720)」より「てんぐのたまご」

 

大岡春卜しゅんぼく(1680-1780)筆「鳥羽絵三国志(1720)」より「あしをそろゑてとべとべ」と「ひよいとな」

 

長谷川光信みつのぶ(生没年不詳)筆「鳥羽絵筆ひやうし(1724)」より「無礼講」

 

作者不詳「鳥羽絵風戯画(年代不詳)」より「腕相撲」

 

河村文鳳ぶんぽう(1779-1821)筆「文鳳麁画そが(1800)」

 

歌川うたがわ国貞くにさだ(1786-1865)筆「鳥羽絵の升六ますろく 四代目中村芝翫しかん 大きな児鼠こねずみ(1860)」

 

 

遊び絵―文字絵―

 

簡略化された鳥羽絵スタイルの画は、様々な形でユーモアあふれる「遊び絵」として発展。漢字や、日本文字であるひらがなやカタカナを用いた戯画も描かれました。

 

有楽斎うらくさい長秀ながひで(生没年不詳)筆「後篇こうへん 大新板おおしんばん文字画姿えすがた(年代不詳)」

 

歌川うたがわ小芳盛こよしもり(生没年不詳)筆「しんばん文字絵つくし(1860年代頃)」

 

 

遊び絵―影絵―

 

ろうそくを使って生活していた江戸時代の人々は、壁や障子に映る影遊びを楽しみました。江戸時代末期には、そうした様子を描いた影絵も親しまれるようになり、役者の横顔を影絵で表現したものも登場しました。

 

歌川うたがわ国利くにとし(1847-1899)筆「あり多気たき御代みよ蔭絵かげえ(年代不詳)」

 

歌川うたがわ広重ひろしげ(1797-1858)筆「即興かげぼしづくし(1830-44年頃)」

 

 

遊び絵―その他―

 

いくつかの人物や動物、道具などを集めて一つの形を描いた寄せ絵、だまし絵、1本の紐で人や動物を表現している絵などのユーモアたっぷり多彩な遊び絵は、この時代、尽きることなく庶民を楽しませました。

 

歌川うたがわ国芳くによし(1798-1861)筆「人をばかにした人だ(1847)」

 

歌川国芳(1798-1861)筆「浮世よしづ久志くし(1847-52)」

 

歌川国芳(1798-1861)筆「としよりのよふな若い人だ(1847)」

 

歌川広重(1797-1858)筆「狂戯芸たわけげいづくし 三(1847-52)」

 

 

大津絵おおつえ

 

京都に近い宿場町、大津(現:滋賀県大津市)で、みやげ物として売られていた画。水難よけ、子どもの夜泣き止めなど、家の壁に貼る護符として人気を博しました。

 

作者不詳「大津絵 酒呑み猿(年代不詳)」

 

歌川国貞(1786-1865)筆「大津絵 鬼の念仏(1815-42)」

 

河鍋かわなべ暁斎きょうさい(1831-1889)筆「狂斎きょうさい百図ひゃくず」より「大津絵のあずま下り(1863-66)」

 

 

死絵しにえ

 

役者や文人など著名人が死ぬと、生前の業績とともに似顔絵を描く追悼絵が登場しました。特に、歌舞伎役者で女性ファンに大人気だった八代目市川いちかわ團十郎だんじゅうろうが死んだ際には、彼の死絵が300種以上出たと言われています。

 

作者不詳「死絵 八代目市川團十郎 行年ぎょうねん三十二才(1854)」

 

 

鯰絵なまずえ

 

日本人は昔から地震は地下の鯰が暴れて起きるものと信じてきました。また悪政の時に鯰が地面を揺らすとも考えられ、政治不信や物価高騰の不満を地震に結びつけました。安政2年(1855)、江戸を襲った大地震の後に描かれた、鯰をテーマにした錦絵は現在残っているものだけで200種に及ぶといいます。

 

作者不詳「鹿島神かしましん、鯰をせいす(1855)」

 

作者不詳「流行三人生酔なまよい(1855)」

 

作者不詳「死者におびえる鯰の親子(1855)」

 

 

合戦絵かっせんえ

 

戦争を描く絵は、平安時代より絵巻などを始め、屏風やふすまなどにも描かれてきましたが、江戸時代になると戯画や諷刺画としても描かれるようになりました。二大勢力あるいは新旧の勢力の対決図を「戦争」というスタイルで描く「合戦絵」は庶民の人気を集めました。

 

歌川うたがわ芳豊よしとよ(1830-1866)筆「道戯どうげ手遊てあそび合戦(1862)」

 

作者不詳「鳥羽画巻物えまきもの之内合戦(1868年頃)」

 

歌川うたがわ芳虎よしとら(生没年不詳)筆「病と薬の大合戦(1847-52)」

 

 

首引絵くびひきえ

 

首引きとは輪にした紐を向き合って座る二人の首にかけ、引っ張り合って勝敗を決める遊び。優劣を争う表現において描かれた題材です。

 

作者不詳「尾上おのえ松助まつすけかなう福助ふくすけ(年代不詳)」

 

 

麻疹絵はしかえ

 

安政大地震で大流行した鯰絵は、後の麻疹絵に影響を与えました。文久2年(1862)、全国的に麻疹が大流行し、麻疹の病原を退治する絵や、その退治に良いもの、悪いものなどを紹介した錦絵が人気を集めました。

 

梅のもと鶯斎おうさい(生没年不詳)筆「麻疹護調てあて延寿えんじゅかがみ(1862)」

 

 

福神絵ふくじんえ

 

「七福神」とは、福をもたらす七柱の神のこと。そのうち「布袋」は財を与えてくれる神様。「弁天」は唯一の女神で美人の代名詞です。この七福神のいずれか、あるいは全員を描いた絵は、縁起のよいものとして江戸時代の庶民の信仰を集めました。

 

歌川うたがわ国綱くにつな(生没年不詳)筆「こかねの花たからの蔵入くらいり(1860年代頃)」

 

 

歌川うたがわ芳綱よしつな(生没年不詳)筆「しん板福神あそび(1854)」

 

 

拳絵けんえ

 

江戸時代末期から、二人以上が手や指でいろいろな形を作って勝敗を争う「けん」遊びが流行しました。現在の「じゃんけん」の形とは異なるが、これらの遊びが原点と言われています。

 

歌川うたがわ周重ちかしげ(生没年不詳)筆「けんざらへ戯歌ざれうた(1869-82年頃)」

 

 

感想

「鳥羽絵」を知り、平安時代後期の絵巻物「鳥獣人物戯画」と江戸戯画が頭の中でつながりました。ここで言う「庶民」は、絵の雰囲気からして裕福な町人。それにしても、当時の笑いのツボって現代と全然違いますね。