GIGA・MANGA⑤ | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

今回は、神戸ゆかりの美術館で見た「GIGA・MANGA―江戸戯画から近代漫画―」より、「1-5 歌川広景の『江戸名所道戯尽どうげづくし』」と「1-6 河鍋かわなべ暁斎ぎょうさいの『狂斎百図きょうさいひゃくず』」を振り返ります。

 

 

1-5 歌川広景の「江戸名所道戯尽」

 

歌川広景は歌川広重(1797-1858)の弟子と言われ、「江戸名所道戯尽どうげづくし」シリーズ以外は15点ほどしか作品が確認されておらず、生没年なども明らかでない。

 

 

同シリーズは、江戸の名所50か所を取り上げ、風景を背景にして手前に滑稽な人物の姿を配した全51枚(目録1枚を含む)のシリーズである。北斎の描いた人物や広重の名所絵を模倣にしたものが多く含まれるのも見どころの一つ。

 

 

版元は辻岡屋文助、刊行年は安政6年(1859)正月から文久元年(1861)8月で、2年8か月の間に刊行された。

 

 

二 両国の夕立(1859年正月)

 

夕立を降らせた雷神が両国橋の下に落ち、河童に足を掴まれている。雷神は逃げながら屁をしたのだろうか。河童はもう片方の手で鼻をつまんでいる。両者の攻防が愉快な作品である。

 

 

広重の師、歌川広重の代表作である、両国橋の上で夕立に遭う人々を描いた《『名所江戸百景』大はしあたけの夕立(1857)》にインスピレーションを得たのだろうか。

 

 

三 浅草反甫たんぽの奇怪(1859年正月)

 

 

十七 とおり一丁目祇園会ぎおんえ(1859年6月)

 

 

二十八 妻恋つまごいこみ坂の景(1859年10月)

 

芥坂ごみざかは湯島の妻恋坂中腹から北へ通る坂にあった。坂の名は、近くにごみ捨て場があったためとも言われる。

 

 

用をたす侍と従者たちの図は、『北斎漫画』十二編で有名な諷刺画「屎別所」をまねたもの。

 

 

三十四 筋違すじかい御門ごもんうち(1859年11月)

 

筋違門は、江戸城外郭門の一つ。交通量が多く、昼夜ともに開門していたといい、その賑わいが見てとれる。手前には、易者が天眼鏡で幼子を連れた女性の顔を大きく映している。

 

 

『北斎漫画』十二編にも、全く同じような絵があり、影響を受けたものと考えられている。

 

 

1-6 河鍋暁斎の「狂斎百図」

 

河鍋かわなべ暁斎ぎょうさい(1831-1889)は、歌川国芳および狩野派に学んだ浮世絵師。幕末期には狂斎、後に暁斎の号で戯画、諷刺画を数多く描いた。当時から人気は高く、肉筆作品も多く残っている。

 

 

狂斎百図きょうさいひゃくず(1863-66年頃)」は、ことわざを戯画化したシリーズで、暁斎らしいユーモアにあふれる表現に人々は魅了され、明治に入ってからも再版されるほど人気を博した。

 

 

小坊主に天狗八人/ふぐハ喰たし命はおしし(1866年9月)

「小坊主に天狗八人」は、小坊主1人の力が強すぎて、天狗は8人いても太刀打ちできない、転じてとても敵わないことをいう。上の図は、前掛けをしてまさかりを持った金太郎である。

「ふぐハ喰たし命はおしし」は、快楽や利益は得てみたいが、後のたたりが怖くてためらうこと。下の図は、武士が、献上された巨大なふぐを食べるかどうか思案している。

 

 

地獄デ仏(1866年9月)

「地獄デ仏」とは、困窮した状況で助けてくれる人に出会うと、まるで仏に救われたように感じるという意味。図は閻魔大王と地蔵菩薩が、地蔵で芝居を演じているところ。見物するのは亡者たちである。

 

 

ながいものにはまかれろ(1863-66年頃)

「長いものには巻かれろ」は、力のある者には、逆らわずに従うのが得である、という意味。図では、ことわざの通り、老婆が首の長い化物「ろくろ首」の長い首に巻き付かれている。女の「抜け首」も舌を出して老婆を驚かせている。その後ろでは蕎麦屋が驚いて腰を抜かしている。

 

 

ぬかにくぎ/とうふにかすがい(1863-66年頃)

「ぬかに釘」はなんの手応えもなく、効き目もないこと。上の図は、商家の大旦那が息子に説教をしているところ。掛軸にはぬかに釘の絵が描かれ、猩々狂斎の落款があるのはご愛敬である。

「豆腐にかすがい」も同義。鎹は材木と材木とをつなぎ止める、両端を曲げた釘。下の図は、まな板の上の豆腐に男が木槌を振り下ろしたところ。豆腐は粉砕され鎹も飛び出している。

 

 

貧すればどんする(1863-66年頃)

「貧すれば鈍する」とは、貧乏をすると働く意欲も賢さもなくなり鈍になるという意味。図は、「貧乏人の子沢山」の一家。台所は使ったようには見えないが、家族は食事をしている。食べ物や生活雑貨はどうやら拾いもののようだ。その様子を破れ団扇を持った貧乏神たちが見ている。貧乏なのに食事をしていることを不思議に思っている様子だ。貧乏でも知恵を働かせれば生きていくための発見ができると、この戯画は伝えている。

 

 

かべに馬をのりかける/めしの上のはい(1863-66年頃)

「かべに馬をのりかける」は強引に物事を行うこと。また、そのために当惑すること。「めしの上のはい」は、「頭の上の蝿を追え」と同義。「はい」は蝿(はへ)の訛り。とにかく人の世話を焼きたがる者に対して、それよりもまず自分自身のことをしっかり始末せよという意味。

 

 

書の大天狗/象の鼻引(1863年5月)

天狗は暁斎が好んで描いた題材の一つであった。上の図では、天狗が鼻に筆をくくりつけて揮毫するユーモラスな姿を描いている。下の図では天狗と象が、「首引」ならぬ鼻を使った「鼻引」遊びで競っている。いずれも鼻にまつわる戯画である。

 

 

すずめ踊り(1863年5月)

「雀踊り」は江戸時代の歌舞伎舞踊で、編み笠をかぶり、やっこの姿で踊る。図では、雀が奴姿で踊っている。踊りの動きや着物の太菱紋など、「『北斎漫画』三編(1815)」の「雀踊り図」に倣っている。

 

 

とふとい寺ハ門から知れる(1863-66年頃)

「尊い寺は門から知れる」は、内容に価値あるものは、外から見るだけで分かることをいう。しかしながら、図ではその逆が描かれている。経机に腰掛け煙管を持つ僧侶が、私腹を肥やした僧侶を裸にして折檻している。僧侶は泣いているが、腹の中には銭箱や小判が見える。表の顔とは異なる本音の表現が見事である。

 

 

かべにミミあり/ごんべが種まきやからすがほぢくる(1863-66年頃)

「壁に耳あり」は、隠し事はどこで誰に聞かれているか分からないので、注意せよという戒め。上の図は、左官が壁を修繕しようとすると大きな耳が現れた。壁の向こうで誰かが聞き耳を立てているのを誇張して表現している。

「権兵衛が種蒔きゃ烏がほじくる」は、蒔いた種を烏に食べられてしまうことから、努力が実らないこと、無駄なこと。本作は若狭屋版の初版には無いと言われるので、後摺で追加された作品か。

 

 

諺もこうして絵を見ると面白いし、頭に入りやすいですね。それにしても、会話の中で諺を使う場面ってほとんど無いような。私にとって諺とは、校長先生が朝礼で使うものというイメージがあるのです。