ムーミン展① | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

 あべのハルカス美術館で開催中のムーミン展に行って来ました!

 

 

 人気の展覧会で、土日は1時間待ちもあるそうですが、平日晩に行ったので空いていました。

 

 

 私自身、ムーミンはアラフィフ世代が持つグッズを通してしか知りません。あの奇妙なキャラのどこに惹かれるのか知りたく、展覧会に行きました

 

 

 総展示数500点。展覧会は7部構成で、約半数が第1章に集中しています。そのためか人の流れが終わりに近づくにつれ、速くなってきました。


 

 

第1章は、全9巻から成るムーミン物語に関する話です。


 

 ムーミン小説が誕生したのは戦後間もない1945年。第1作は『小さなトロールと大きな洪水』。発行部数はわずかで、売上が芳しくなく初版で絶版。1991年の再版まで幻の作品でした。

 

 

 小説第2作は、1946年に出版された『彗星追跡』。1956年に『彗星を追うムーミントロール』、1968年に『ムーミン谷の彗星』(原題は『彗星せまる』)として大幅に改稿され、現在の形になりました。

 

 

 小説第3作は『たのしいムーミン一家』。1948年に出版。母国フィンランドと隣国スウェーデンで評判になり、ムーミンシリーズの中で初めて英訳されたヒット作です。

 

 

 小説第4作は『ムーミンパパの手柄話』。1950年に出版。1968年に改稿され、現在の『ムーミンパパの思い出』になりました。

 

 

 小説第5作は『ムーミン谷の夏まつり』。1954年に出版された作品です。

 

 

 小説第6作は『ムーミン谷の冬』。1957年に出版。これまでと作風が一変し、多くの文学賞と美術賞を受賞しました。

 

 

 小説第7作は『ムーミン谷の仲間たち』。1962年出版。フィンランド国民文学賞受賞作。シリーズ唯一の短編集です。

 

 

 小説第8作は、『ムーミンパパ海へいく』。1965年に出版。ムーミンシリーズへの評価をますます高めた作品で、翌年、児童文学における最高の栄誉とされる国際アンデルセン賞を受賞しました。

 

 

 小説第9作は『ムーミン谷の十一月』。1970年に出版され、最終巻となりました。

 

 

 

第2章は、ムーミン誕生秘話です。

 

 

 ムーミンの作者、トーベ・ヤンソンは1941年8月9日、フィンランドの首都ヘルシンキに生まれました。父は彫刻家、母はグラフィックアーティストという芸術家一家で、二人の弟と共に育ちました。

 

 

 幼い頃、サマーハウスのトイレの壁に鼻の長いいきものを落書き。「SNORK」と呼ばれるそのいきものがムーミンの原型だと言われています。

 

 

 15歳でグラフィックデザイナーとしてデビュー。プロとして収入を得ながら、10代後半はストックホルムで商業デザインを、次いでヘルシンキで美術を学びました。

 

 

 ストックホルム工芸専門学校時代、寄宿先の叔父の家で夜中に台所でつまみ食いしている所を見つかり、「ムーミントロールというお化けがいるぞ」と脅かされ、その姿を絵日記に記したとか。

 

 

 20代になると、奨学金を得てはフランスやイタリアに渡って見聞を広め、絵画技術を取得しました。その頃描いたいくつかの絵画に、「黒いムーミントロール」が登場します。

 

 

 帰国後は定期的に油彩画の個展を開く一方、イタリアで学んだフレスコ画の技法でヘルシンキ市庁舎をはじめ、数多くの公共建築に壁画を描き、画家としての地位を築いていきました。

 

 

 戦時中、15歳の時から寄稿している政治風刺雑誌「ガルム」のイラストの片隅に、ムーミンと似た姿形のキャラクターを描き始めます。

 

 

 そして署名の横にムーミントロールを添えるようになりました。これが戦後のムーミン小説誕生につながったのです。

 

 

 

第3章は、トーベ・ヤンソン創作の場所。ムーミンシリーズ執筆の背景に迫ります。

 

 

 1954年、イギリスの夕刊紙「イブニング・ニューズ」にて、ムーミン・コミックスの連載を開始。この連載がムーミン人気を決定づけ、最盛期には世界40ヶ国以上、1200万人の読者がいました。

 

 

 漫画で火がついたムーミンの人気は、すぐにオリジナルの児童文学シリーズにも及び、次々に各国語に翻訳され、ヨーロッパ中で高い評価を獲得していき、トーベの児童文学作家としての国際的な名声は不動のものになりました。

 

 

 その一方で、過熱するムーミン・ブームは、トーベから絵画制作の時間を奪い、代わりに締切のプレッシャーと山のような契約書、プロモーションの監修、打ち合わせに次ぐ打ち合わせ、メディアからのインタビュー、世間からの激しい毀誉褒貶をもたらしました。

 

 

 次第に疲弊し、ムーミンを憎むようになった頃、グラフィックアーティストのトゥーリッキ・ピエティラ(1917-2009)と出会います。彼女から示唆を得て、小説第6作目『ムーミン谷の冬(1957)』が完成。大きな転機になりました。

 

 

 一方、連載漫画の仕事は、末弟のラルス・ヤンソン(1926-2000)に引き継ぎ、念願だった絵画制作のための時間を入手。

 

 

 さらに1964年には、沖合の孤島クルーブハルに小屋を建て、トゥーリッキと二人、夏の数ヶ月間を世間から隔絶された環境で、芸術に没頭して過ごすようになります。トーベは画家として、60年代だけで5回個展を開きました。

 

 

 1970年、第9作『ムーミン谷の十一月』の完成間近に、母シグネが他界。これに伴い、ムーミン小説シリーズの完結を宣言したのです。

 

 

 以後、トーベは作家としてのフィールドを大人向けの一般小説に移すことになります。1970年代から80年代にかけてコンスタントに作品を発表し、1982年にはこれらの作品により、フィンランド国民文学賞を受賞しました。