ゴッホの生涯と作品 | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

 兵庫県立美術館で開催中のゴッホ展。展覧会ではゴッホの人となりに迫りました。

 

 

 フィンセント・ファン・ゴッホ(画像右)は1853年、オランダ南部ズンデルト村の牧師の家に、6人兄弟の長男として生まれました。4歳年下の弟テオ(画像左)は、ゴッホを生涯に渡って支援した人物です。

 

 

 16歳にして伯父が設立したグーピル画廊に就職し、ハーグ支店→ロンドン支店→パリ本店と7年ほど勤務。解雇された後は、教師→書店員と職を転々としました。

 

 

 やがて牧師を志すも、神学部の受験に挫折。ベルギー・ブリュッセルの伝道師養成学校に入学し、ボリナージュの炭坑地帯で伝道活動をしましたがその道を閉ざされ、画家になる決意をします。その時27歳でした。

 

 

 ゴッホは聖書の影響で、大地に根づいて暮らしている農民こそが高貴な存在だと考え、農夫や田園風景などをスケッチしました。また、バルビゾン派の画家、ジャン=フランソワ・ミレー(1814-75)を尊敬し、ミレー作品の模写に努めたと言われています。

 

 

 一時期ブリュッセル王立アカデミーに在籍したものの経済的に行き詰まり、オランダ・エッテンに帰郷。ハーグに住む親戚、アントン・マウフェ(1838-88)を頼り、油絵や水彩画の手ほどきを受けました。

 

 

 マウフェはオランダ写実主義の画家で、ハーグ派のリーダーを担う人物です。ゴッホはマウフェを通じてヨゼフ・イスラエルス(1824-1911)、ヤコプ・マリス(1837-99)、マテイス・マリス(1839-1917)など、ハーグ派の画家たちと知り合いました。

 

 

 しかし、ゴッホがとある娼婦と同棲を始めたことにより、マウフェとの関係は悪化。指導を打ち切られます。モデルを使うことに固執したゴッホは、この娼婦をモデルに「ジャガイモの皮を剥くシーン(1883)」などを描きました。

 

 

 やがて生活に行き詰まり、1年程で娼婦との同棲を解消。オランダ・ドレンテへと旅立ち、ミレーに倣って農民風景を描いたりして過ごしましたが、再び家族の住むヌエメンに帰省します。その時30歳でした。

 

 

 ゴッホは実家の小部屋をアトリエとして使い、1年がかりで原画を練りに練り、初めて他人に見せるための作品を完成させました。それが「ジャガイモを食べる人々(1885)」です。

 

 

 ところがこの作品の評価はさっぱり。ベルギー時代の友人アントン・ファン・ラッパルト(1858-92)には、人物の描き方や遠近感などを酷評され、弟で画商のテオには、色彩が暗く今の時代に即していないと批判されました。

 

 

 さらに同年、父親が急死。父親の信用で契約していた部屋を打ち切られ、実家を離れる事を余儀なくされました。しかしオランダを去り、パリで最新の絵画に触れる事で、ゴッホの才能は急激に開花したのです。

 

 

 32歳のゴッホは、モンマルトルにあるフェルナン・コルモン(1845-1924)の画塾に通い、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864-1901)やポール・ゴーギャン(1848-1903)らと出会います。

 

 

 また、ジョルジュ・スーラ(1859-91)、ポール・シニャック(1863-1935)といった新印象派の作品に触れました。

 

 

 当時流行していたジャポニズムにも関心を寄せ、浮世絵版画を収集。歌川広重(1797-1858)の「亀戸梅屋舗(1857)」や溪斎英泉(1791-1848)の「雲龍打掛の花魁(1830-44)」などを模写した他、1887年にはカフェ「ル・タンブラン」で浮世絵展を開きました。

 

 

 この時知り合ったのが、絵具屋のジュリアン・ペレ・タンギー(1825-94)。彼をモデルにした「タンギー爺さんの肖像(1887)」の背景にも、浮世絵が描き込まれています。

 

 

 35歳になったゴッホは、静養のため、南仏アルルへ移住。芸術家たちとの共同アトリエ「黄色い家」を借り、ゴーギャンとの生活を送ります。

 

 

 ゴッホはこの地で、鮮やかな色彩と力強い筆致、アドルフ・モンティセリ(1824-86)に影響が見られる厚塗りによる手法を確立し、「ひまわり」「夜のカフェテラス」「種まく人」(いずれも1888)などの代表作を生み出しました。

 

 

 生前唯一売れた「赤い葡萄畑(1888)」もこの頃の作品です。この絵は、1890年2月、ベルギー・ブリュッセルで「20人会」という芸術家グループが開催した展覧会に出品され、アンナ・ボック(1848-1936)という女流画家により、400フラン(日本円で約11万)で落札されました。

 

 

 一方ゴーギャンは、ゴッホとの共同生活で、「ひまわりを描くゴッホ(1888)」を残しています。

 

 

 しかし同年末、ゴーギャンとの口論の末、ゴッホが自ら耳の一部を切り落とす事件を起こし、短い共同生活が終わりました。

 

 

 サン=レミの精神病療養所に1年ほど入院。発作を患いながらも、「星月夜(1889)」などを手掛けました。この頃から作品内に渦を巻く描写が見られるようになったと評されています。

 

 

 例えば展覧会の写真撮影コーナーにも用いられている「糸杉(1889)」。これも渦を巻いた作品です。

 

 

 1890年5月、パリ郊外のオーヴェール=シュル=オワーズを次の静養地に選んで移住。療養の傍ら制作を続けました。のぼりに用いられている「薔薇(1890)」はこの時の作品です。

 

 

 同年7月、オーヴェール=シュル=オワーズの小麦畑でピストル自殺したゴッホ。最期は自身の画業を支えてきた弟・テオに看取られ、37歳でこの世を去りました。

 

 

 私が一番驚いたのは、弟のテオが、翌1891年、ユトレヒトの精神病院でゴッホの後を追うように亡くなった事。オーヴェール=シュル=オワーズの墓地には、ゴッホとテオの墓石が並んでいます。

 

 

 ゴッホの死後、テオの妻ヨハンナ(1862-1925)やゴッホの友人エミール・ベルナール(1868-1941)が相次いでゴッホの書簡集を出版し、ゴッホ作品の評価が上がっていきました。1900年代には1点約300万円まで高騰しています。

 

 

 1910年代に入ると、ゴッホ作品の価値は益々上がり、ヨハンナは相続税対策のため、オランダ国家に作品を寄贈しました。これがゴッホ美術館の原型です。書簡集をもとに現地取材をする研究家たちも現れ、ゴッホの人生が神格化されました。

 

 

 1934年に米国の小説家アーヴィング・ストーン(1903-89)が「炎の人ゴッホ」を発表。1956年には映画化され、トップセラーになります。

 

 

 1987年に「ひまわり(1888-90)」を、1990年には「ガシェ医師の肖像(1890)」を日本人が約124億円で落札したことで、日本でもゴッホ人気が高まりました。

 

 

 西洋美術史上、ポスト印象派に属すゴッホ。10年の画家人生のうち、代表作のほとんどが最後3年のものです。印象派の影響を受けながらどことなく垢抜けない絵。彼の人となりがダブりました。