谷崎潤一郎記念館 | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

 芦屋市立美術博物館の隣にある、谷崎潤一郎記念館に入りました。

 

 

 只今特別展「潤一郎THE SHOW TIME!!~文豪inエンターティメント~」開催中。純文学者として後世に名を残した谷崎潤一郎ですが、若い頃は西洋モダニズムに憧れ、映画の脚本も執筆していました。

 

 

 

 通常展「谷崎潤一郎 人と作品」も開催中。79年の生涯で40回ほど転居した事は知っていましたが、生涯で3回結婚したとは知らず、まずその複雑な家系図に驚きました。

 

 

 谷崎潤一郎は明治19年(1886)、東京都中央区人形町に生まれました。東京帝国大学国文科中退。24歳の頃「刺青」で永井荷風(1879-1959)に認められ、文壇デビューを果たしています。

 

 

 29歳で石川千代(1897-1982)と結婚。千代は貞淑で従順な女性であり、丹毒を患っていた谷崎氏の母の看病をし、父の面倒も見ました。しかし潤一郎は千代の妹せい子と同居を始め、次第にその自由奔放な性格に惹かれていきます。

 

 

 谷崎氏は度々千代に暴力を振るうようになりました。そんな千代に同情したのが、谷崎氏の親友、佐藤春夫(1892-1964)。谷崎氏は千代を春夫に譲ると言いながら譲らなかったため、二人は絶交。これが大正10年(1921)の小田原事件です。

 

 

 大正12年(1923)、37歳。箱根で関東大震災に遭い、関西へ移住。以来主に阪神間と京都で33年間に渡って生活。上方文化を知り、伝統的な日本の美意識を追い求めるようになりました。

 

 

 こうして、せい子をモデルにした「痴人の愛(1925)」、文楽人形のように古風な女性が登場する「蓼喰ふ蟲(1927)」、大阪弁の語り口が特徴的な「卍(1931)」、上方の音曲の世界を採り上げた「春琴抄(1933)」など、名作が次々に生まれたのです。

 

 

 昭和5年(1930)、44歳。谷崎氏は妻・千代を佐藤春夫氏に譲るという声明文を出し、離婚。世間では「細君譲渡事件」と騒がれました。翌年、文藝春秋の女性記者・古川丁未子(1909-69)と再婚しましたが、わずか2年で離婚しています。

 

 

 兵庫県芦屋市は、谷崎氏にとってゆかりの深い土地です。芦屋市宮川町で暮らした昭和9年(1934)から約2年半の間に、森田松子(1903-91)と結ばれ、「猫と庄造と二人のをんな(1937)」を書き、源氏物語の現代語訳に取り組みました。

 

 

 昭和11年(1936)、50歳。神戸市東灘区の「倚松庵」に転居。庵号は松子夫人の名に因んだものです。ここに7年間住み、「細雪(1946-48)」の執筆をしました。

 

 

 「細雪」は、昭和11年(1936)秋から昭和16年(1941)春までの大阪の旧家を舞台に、4姉妹の悲喜こもごもを綴った物語です。モデルは松子とその姉妹。写真前列左が次女松子、右が長女朝子、後列左から四女信子、三女重子、そして松子の長女・恵美子です。

 

 

「細雪」は、昭和21年から23年(1946-48)まで連載されました。そして昭和24年(1949)年、63歳で文化勲章を受賞。

 

 

 谷崎氏は、生涯3度に渡って源氏物語の現代日本語訳を行いました。1回目は「潤一郎訳源氏物語(1939-41)」、2回目は「潤一郎新約源氏物語(1951-54)」、3回目は「潤一郎新々訳源氏物語(1964-65)」を出版しています。

 

 

 昭和31年(1956)、70歳の谷崎氏は京都の家を売却し、関西での生活を終えました。晩年は老人の性をテーマにした「鍵(1956)」や、「瘋癲老人日記(1962)」を執筆しています。

 

 

 昭和40年(1965)、79歳。腎不全から心不全を併発し、神奈川県湯河原町の自宅で亡くなりました。

 

 

 谷崎潤一郎記念館の庭園は、谷崎氏の関西での最後の住居、京都潺湲亭(せんかんてい)の庭を模したものです。

 

 

 池には鯉が泳いでいました。

 

 

 飛び石を渡って対岸へ。

 

 

 早くも梅が3分咲き。近いうちに梅林へ行こうと思っています。