カップヌードルミュージアム④ | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

 ミュージアムの資料と日清食品のホームページをもとに、カップヌードル開発の話をまとめてみました。

 

 

 チキンラーメン発売の後、百福は会社名をサンシー殖産から日清食品に変更。本社を大阪市中央区に置き、妻・仁子を取締役に、仁子の母・須磨を監査役に登用しました。

 

 

 会社名の変更も、チキンラーメンが爆発的に売れるようになった要因の一つです。というのも、チキンラーメンを発売した昭和33年(1958)は、上皇后陛下結婚の年。美智子様の実家が日清製粉だったことから、皇室と日清食品が結びついたのです。

 

 

 その後日清食品は、日清焼きそばや出前一丁など新しい即席麺を出しましたが、チキンラーメンを超えるヒット商品にはならず、新商品開発に頭を悩まされました。

 

 

 一方で、百福はチキンラーメンを海外へ広めようと考えていました。そこで昭和41年(1966)にアメリカを視察。チキンラーメンを小さく割って紙コップに入れ、お湯を注いでフォークで食べる光景を目の当たりにしました。この事が開発のヒントになったのは言うまでもありません。

 

 

 新製品の開発は、容器作りから始まりました。百福は理想とする「片手で持てる大きさの容器」を見つけだすため、40種類近くもの試作品を作って検討を重ねました。その結果、紙コップを大きくしたコップ型が採用されました。

 

 

 カップの素材として選んだのは、軽くて断熱性が高く、経済性にも優れた発泡スチロール。しかし、当時の日本ではまだ珍しい素材だったこともあり、薄く加工し、片手で持てる大きさに成型することは容易ではありませんでした。

 

 

 そこで、百福は米国の技術を導入し、自社で容器製造に乗り出したのです。臭いがなく、食品容器にふさわしい品質に精製するまで時間はかかりましたが、米国食品医薬品局 (FDA) の品質基準をはるかに上回るカップを完成させました。

 

 カップは完成したものの、麺をカップに収めるのも難しい問題でした。カップは上が広く下が狭いため、麺をカップよりも小さくすれば簡単にカップの中に入りますが、輸送中にカップの中で麺が揺れ動き壊れてしまいます。

 

 

 そこで考え出したのが、カップの底より麺を大きくしてカップの中間に固定する「中間保持法」のアイデアでした。しかし、いざ麺をカップに収めようとすると、傾いたりひっくり返ったりして、うまくいきません。

 

 

   寝ても覚めてもカップヌードルの事を考えていた百福。ある晩、布団に横たわっていると、突然天井が回ったような錯覚に陥りました。その時、「カップに麺を入れるのではなく、麺を下に伏せて上からカップをかぶせればいい」とひらめいたのです。この 「逆転の発想」によって確実に麺をカップに入れられるようになり、工場での大量生産が可能になりました。

 

 

 世界中から60種類以上を集めて選んだエビをはじめ、いろいろな具材を考えました。決定した具材は、フリーズドライ製法(真空凍結乾燥法)で加工しました。固形物の加工にこの方法を使ったのは、カップヌードルが初めてです。

 

 

 アメリカ視察の帰り、飛行機の中で客室乗務員から貰ったマカデミアナッツ。紙とアルミ箔を貼り合わせた上ブタが密着していました。百福はこの上ブタをヒントに、通気性がなく長期保存できるカップヌードルのアルミキャップを発明したのです。

 

 

 異物混入を防ぐため、カップ全体に包装が必要だと考えました。薄いポリプロピレンのシートをかぶせ熱を加えて収縮させるシェリンク包装を採用。カップの形ぴったりに短時間でうまく収縮させる技術を開発しました。この方法を実用化したのも、カップヌードルが初めてです。

 

 

 さまざまな知恵や工夫が詰め込まれたカップヌードル。百福が「ひらめきは執念から生まれる」と語っていたように、新しい素材や技術を導入するだけでなく、自らも新しい手法を発案し、次々に課題を解決していきました。

 

 

 こうして誕生した新製品は、世界中で通用するように「カップヌードル」と名付けられ、昭和46年(1971)9月18日に発売されました。

 

 

 カップヌードルは、袋麺が25円の時代に1食100円と高価で、その上、立ったまま食べるのは行儀が悪いという意見もあり、店頭販売を渋られました。そこで百福は、自ら新しい販売ルートを開拓。それまでにない宣伝や販売促進を行うことにしたのです。

 

 

 お湯の出る自動販売機は、カップヌードルを買ったその場で熱いお湯を注いで食べられると話題を呼び、1年間で全国に2万台が設置されました。

 

 

 また、若者が集まる銀座の歩行者天国に着目。カップヌードルの試食販売を実施すると、予想をはるかに超える人が押し寄せ、多い日には2万食を売り尽くすほど人気を集めました。

 

 

  そしてカップヌードルの人気を決定づける事件が起こりました。昭和47年(1972)2月に起きた、連合赤軍による浅間山荘事件です。この事件は連日テレビで中継され、山荘を取り囲む警視庁機動隊員がカップヌードルを食べている様子が映し出されました。その映像が思いがけず全国の視聴者へのアピールになり、その時からカップヌードルは売れ始めたのです。



  カップヌードルは「Cup O’Noodles」の商品名で、昭和48年(1973)アメリカに進出しました。その後もブラジル、シンガポール、香港、インド、オランダ、ドイツ、タイなどに次々と拠点を設立。日本の味をそのまま輸出するのではなく、それぞれの国や地域の人が好むスープや具などを商品作りに反映させることで、カップヌードルは日本生まれの世界食となりました。