白山権現への道を歩きました。白山権現は、大講堂や摩尼殿に次いで性空上人の第3の吉所(縁起の良い所)で、上人はそこで六根清浄の行をつんで心眼を開いたとされています。
それにちなんで1月18日の鬼追い会式が白山権現で行われるようになったとのこと。それにしても、この険しい山道を歩くのは大変です。
何も無い日にここまで足を運ぶ人はほとんどいないようで、境内の人混みが嘘のようでした。
鬼追い会式では、主役の赤鬼と青鬼がこの白山権現に来て、神域を周りながら四隅でたいまつの明かりを振りかざします。
この地には性空上人の入山前から祠がありました。それは素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀る堂で、神の時代に素戔嗚尊がこの峰で一宿したと伝えられています。
この山は「素戔の杣(すさのそま)」とも呼ばれ、書写山の名はこれに由来すると言われています。
時は流れ1577(天正5)年。羽柴秀吉は毛利軍との戦いに備えて、書写山に本陣を置きました。軍師官兵衛の働きで、播磨の主だった武将達は秀吉に味方すると決めていましたが、三木城の別所氏は毛利方に寝返りました。
東の別所と西の毛利に挟まれても有利に戦えるよう、官兵衛は書写山に本陣を置くことを秀吉に進言しました。官兵衛の進言に従って秀吉が本陣を置いた場所が、この十地坊(じゅうじぼう)跡です。
官兵衛も見たという十地坊跡からの風景。標高370mの置塩山に山城があり、最後の城主となった赤松則房は、羽柴秀吉の中国攻めに対して戦うことなく降伏し、軍門に入りました。官兵衛とは狼煙等を使って連絡を取り合い、三木城の別所長治を攻めたと言われています。