生野銀山坑道内(近代の採掘法③) | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

 立坑(エレベーター)へ向かう途中、パワースポットのような場所がありました。滝の音が響き渡り、より一層涼しく感じられます。滝の前には鉱石が祀られていました。産出鉱物は黄銅鉱・閃亜鉛鉱など約70種類に及びます。

 

生野銀山の歴史

 生野銀山は807(大同2)年に発見され、1542(天文11)年、山名祐豊(すけとよ)の時代に銀鉱脈の本格的な採掘が始まり、織田信長や豊臣秀吉の時代には生野に代官が置かれました。秀吉がお茶と点てる時に使ったと伝えられている「太閤の水」が洞窟内に残っています。

 

 1600(慶長5)年に徳川家康が但馬金銀山奉行を設置。生野銀山は佐渡金山や石見(いわみ)銀山と並び天領として幕府の財政を支えました。1716(享保元)年には生野代官所が置かれ、やがて生野銀山は8代将軍吉宗の頃に最盛期を迎えます。月産150貫(約562kg)の銀を産出しました。

 

鉱石の運搬

 トロッコのレール跡に沿って歩きました。

 

 坑内員は採掘した鉱石をトロッコに積み、蓄電池機関車で立坑(エレベーター)に運びました。

 

 金香瀬(かながせ)地区には、8つの立坑が掘られました。その1本が光栄(こうえい)立坑です。光栄立坑は最も深く、その深さは880mです。

 

 光栄立坑から横に坑道を堀り、鉱脈を追って下から上に堀り上がりました。

 

 坑内員はロープケージで坑道内を移動し、鉱石や資材の運搬をしました。

 

 ロープケージは巻揚機の操作によって動きます。巻揚機の操作は人力で行われました。

 

 巻揚機は地下900mの深さから、200馬力の力で一度に2トンの鉱石を上げることができました。