明石城跡 | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

 2代将軍徳川秀忠は、1615(慶長20)年、大坂夏の陣の後、西国への政情不安が残ることから、小笠原忠真に築城命令を下し、1619(元和5)年に明石城が完成しました。

 

 8代城主、松平(まつだいら)直明(なおあきら)は、明石城に居た頃(1682-1701)、お茶を点てる時にこの井戸水を使っていました。

 

 この井戸は、明石城内で一番良い水が出る井戸だと云われています。

 

 敵はここを駆け上り、城主が住む本丸を攻めたことでしょう。

 

 防御のため、本丸の周りに4つの櫓を建てました。現存の建物は南側の櫓だけ。本丸は緑豊かな公園に変わりました。

 

 南東は巽(たつみ)櫓。

 

 巽櫓から明石海峡大橋が見えます。

 

 塀の穴は鉄砲を通すための穴。塀に隠れて敵を撃ったことでしょう。

 

 南西は坤(ひつじさる)櫓。たまたま内部公開をしていました。

 

 櫓の中は薄暗く、窓から入る光を頼りにしているかのようでした。階段が急で上り下りが大変そうです。

 

 窓から球場が見えました。高校野球の試合中でとても賑やかでした。

 

 坤櫓の隣にある天守台に上りました。

 

 天守台の上は、この通り何もありません。明石城完成後、次第に政情が安定したため、天守閣は造られることなく、台だけ残りました。

 

 人丸塚は明石城の守り神として祀られてきました。空海が建てた楊柳寺(ようりゅうじ)に、880年頃、住職覚証が、夢のお告げで柿本人麿を祀ったのが始まりです。明石城完成後、楊柳寺は人丸山に移されましたが、消滅しました。

 

 正岡子規の系統を継ぐ明石出身の俳人、横山蜃楼(1885-1945)は、次の句を詠みました。「鵙(もず)の声 屈するところ なかりけり」明石城での戦を詠んだ句でしょうか?なぜ人丸塚の横に句碑があるのか、不明です。