小磯記念美術館で、フランス近代絵画とルネ・ラリックのガラス工芸品を見ました やっぱり絵画は幻想的な風景画がいいです 光の当たり具合、遠近感。微妙な色使いが素敵でした
フランス近代絵画とアール・デコについて調べてみました。
18世紀末のフランス革命で絶対王政が崩壊。ナポレオンの台頭により、王権は神によって与えられるものではなく、市民によって選ばれるものになりました。そして主導権はブルジョワと呼ばれる裕福な市民階層に移ったのです。政権を市民に戻そうとする運動が始まりました。
芸術家のパトロンは貴族からブルジョワに代わり、芸術家は表現の自由を得ました。こうして生まれたのが、ロマン主義。ロマン主義とは別の方法で、反政府的な芸術を表現したのが写実主義。画家は現実の良い所も悪い所もあるがままに描きました。
1830~70年代にパリ郊外のバルビゾン村で活動したバルビゾン派も写実主義の一派です。バルビゾン派の画家たちは、主に風景画や農民画を描きました。
ルソー「フォンテーヌブローの森」
ミレー「落穂拾い」もバルビゾン派の絵です。
当時、絶対的な権威を持っていたのが芸術アカデミー。アカデミーはコンクールで優勝した人に留学の機会を与えたり、展覧会の援助をするなど、若手芸術家のパトロンの役割も果たしていました。
写実主義派はアカデミーと対立していました。アカデミーでは、聖書や神話など宗教的または歴史的な画材が良しとされ、風景は人物の背景でしかなく、風景画は最低の絵とされていたためです。
いつ誰が唱えたのか分かりませんが、学校ではヌード画がデッサンの基本とされ、一般女性が画材に採り上げられるようになりました。下の絵はマネの「草上の昼食」。残念ながら、アカデミー主催のコンクールでは落選しています。
1870~80年代、パリで活動していた画家のグループが、自主的に展覧会を開催し、保守的な美術界から激しい批判にさらされながらも、一般人に受け入れられ、突出した存在になります。モネの「印象・日の出」に由来し、「印象派」と呼ばれるようになりました。
ドガの踊り子や、
ルノワールの舞踏会も印象派を代表する絵です。
1920年代、世界各地からパリのモンマルトルやモンパルナスに集まり、ボヘミアン的な生活をしていた画家がたくさんいました。1928年に「エコール・ド・パリ展」が開催され、彼らは「エコール・ド・パリ(パリ派)」と呼ばれるようになりました。藤田嗣治(フジタツグハル)もそのうちの一人です。
藤田嗣治(1886-1968)は、東京美術学校卒業後パリに移り、「レオナール・フジタ」と名乗り、活動しました。猫と女の画材を得意とし、日本画の技法に油彩画を取り入れ、西洋画壇の絶賛を浴びたそうです。
工芸や建築の世界では、1910年代半ばから30年代にかけて、幾何学模様をモチーフとした「アール・デコ」が流行りました。呼び名は1925年開催のパリ万国装飾美術博覧会「現代装飾美術・産業美術国際博覧会(アール・デコ博)」に由来します。日本陶器合名会社(現:ノリタケカンパニーリミテド)が戦前まで欧米に輸出していた陶磁器もアール・デコです。
ルネ・ラリック(1860-1945)は、ジュエリーデザイナーからガラス工芸家に転身したアール・デコ派の芸術家です。1918年にラリック社を設立。今でもラリックは高級クリスタルブランドとして有名で、大阪のリーガロイヤルホテルに直営店があります。
もともと印象派は日本の浮世絵から、「アール・デコ」は日本の陶磁器から発展しました これらの芸術が日本人に受け入れられるのは、どこか日本の面影が残っているためだと思われます