マイコンの歴史 | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

● コンピュータの処理速度

 

 コンピュータの演算処理は、「マイクロプロセッサ」という半導体チップで行われます。マイクロプロセッサは家電製品や工業製品にも使われています。CPU(中央演算処理装置)もマイクロプロセッサのうちの1つです。

 

 コンピュータの最小情報処理単位は「bit(ビット)」です。「ビット」は「binary digit(バイナリーデジット)」の略で、「2進数」という意味があります。2進数で扱える数字は「0」と「1」のみ。つまり「ビット」は、0か1か2つの選択肢からどちらかを選ぶ能力だと言えます。

 ビットは2つ(0または1)の選択肢なので、1ビットで2通りの結果(組み合わせ)が得られます。2ビットは2の2剰で4通り、3ビットは2の3剰で8通り。4ビットは2の4剰で16通りの結果が得られます。

 

 マイクロプロセッサの処理速度は、4ビット→8ビット→16ビット→32ビット→64ビットの順に進化しました。ここで言う処理速度は、一度に処理できる情報量のことで、情報量の最小単位はバイトです。1バイトは英字や数字1文字で、ひらがなや漢字1文字は2バイトです。4ビットは16バイト、8ビットは256バイト、16ビットは65,536バイト、32ビットは42億9,496万7,296バイト、64ビットは1,844京6,744兆737億955万 1,615バイト。Windows8以降64ビットのパソコンが標準になりました。まだ32ビットのパソコンも使えますが、32ビットと64ビットでは処理能力が全然違います。

 

● マイコンの歴史

 

 マイクロプロセッサを発案したのは、ビジコン社(旧日本計算機販売)の社長、小島義雄です。日本の半導体メーカーに共同開発を持ちかけましたが断られたため、当時新興半導体メーカーだったインテルがパートナーになったそうです。1971年に4ビットのマイクロプロセッサ「インテル4004」が完成し、それを搭載した電卓「141-PF」がビジコン社から発売されました。

 

 インテルは4004の開発中に、マイクロプロセッサの可能性に気づき、ビジコン社から受け取った開発費を返す代わりに、4004の独占販売権を手にし、1971年に販売を開始しました。

 ビジコン側でマイクロプロセッサの開発を行っていた嶋正利は、1972年インテル社に移り、8ビットのマイクロプロセッサ「8080」を開発しました。

 

 1974年に「インテル8080」の販売を開始し、1975年に米MITS社が8080を利用したマイクロコンピュータ組立キット「アルテア8800」を発売しました。アルテア8800は世界初の一般消費者向けのコンピュータで、マイクロソフトが開発したプログラミング言語「BASIC」を使ってプログラムを作ることができました。当時マイクロソフトは、ビル・ゲイツとポール・アレンが設立したばかりの会社でした。

 

 日本では、1976年にNECがマイコンを普及させるため、インテル8080と互換性のあるCPUを搭載した、トレーニング用の組立キット「TK-80」を発売しました。

 

 まだ「パソコン」という言葉が無く、個人向けのコンピュータを「マイコン(マイクロコンピュータの略)」と呼んでいました。ディスプレイとして家庭用のテレビを、外部記憶装置としてカセットテープレコーダーを接続して使いました。

 

 ソフトウェアはフロッピーで販売されていました。フロッピーはマイコン本体よりも高価で、1つのプログラムが終了しないと別のプログラムは動かせず、表示できる文字は英字、カタカナ、特殊文字だけで、ひらがなや漢字は基本的に表示できませんでした。フロッピは8インチ→5インチ→3.5インチと、次第に小さくなっていきました。

 

 プログラミング言語はBASICかアセンブラが使われていました。下の画像は、BASICで書いたゲームプログラムです。「アスキー」などマイコン雑誌には、このようなゲームプログラムが掲載され、愛好家はそれをマイコンに入力して遊んでいたそうです。

 

 2020年以降小学校でプログラミングの授業が必須になるそうで、子供にプログラミングを教えるパソコンスクールも増えました。下の画像は「スクラッチ」というゲーム作成ソフトです。子供向けのソフトなので操作は簡単ですが、ストーリーを考えてゲームを作るのは難しいですショボーン