キリンビール工場 | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

 光の加減でハートが見える糖化釜。旧尼崎工場に設置されていたもので、1961年から1996年まで35年間稼働していたそうです。旧尼崎工場は1918年開業というとても歴史ある工場でした。尼崎市の再開発事業により、1996年に閉鎖します。

 

 1997年、現在の三田市に移転。今年は神戸工場設立から20周年を迎えます。高速道路のインターチェンジが近くて出荷に有利なこと、緑豊かな地域でビールに必要な良質の水を確保できることが立地の決め手になったそうです。

 

 試飲で頭がぼんやりしていましたが、座っていると酔いが醒めたので、展示室を周りました。会社の変遷や歴代の商標ラベルが掲示されていました。

 

 日本人が初めてビールを飲んだのは、1724年のことでした。「和蘭問答」に、オランダ商館長が持ち込んだビールを幕府役人が飲んで、「味がなくてとってもマズい」と言ったと書かれています。

 ペリーが来航した1853年に三田藩出身の化学者、川本幸民(1810〜1871)は、蘭書を見て東京の私邸でビールを醸造しました。

 

 1869年にドイツ人のヴィーガントが横浜の山手居留地にジャパン・ブルワリー創設しました。これが日本初のビール醸造所です。翌年、ノルウェー出身のアメリカ人、コープランドが「スプリング・バレー・ブルワリー」を創設。1876年に両社は合併しました。

 

 経営難に陥っていた会社を、1885年に三菱の岩崎弥之助、渋沢栄一、後藤象二郎、グラバーらが共同出資して、新会社「ジャパン・ブルワリー」に衣替えします。ドイツ産原料を使用し、ドイツ人技師が醸造した「キリンビール」を1888年に発売しました。

 

 商標ラベルの原型は1889年に完成しました。商標を「麒麟」にしようと提案したのは三菱の荘田平五郎で、当時、西洋から輸入されていたビールのラベルに動物の絵柄が描かれていたことから、東洋の想像上の動物である「麒麟」を採用したのではないかといわれています。

 

 その後ジャパン・ブルワリーの工場と事業が日本人経営者達に引き継がれ、1907年に麒麟麦酒株式会社が創立されました。

 

 1914年第1次世界大戦勃発。ドイツから原材料の輸入が出来なくなり、ドイツ人技師も離日してしまいました。特需景気でビールの需要が高まりましたが、キリンの工場は横浜山手に1つしかなかったので、1916年に兵庫県川辺郡小田村(現在の尼崎市)に日本人技師だけで工場を作る計画を立て、1918年に神崎工場(1949年尼崎工場と名前を変更)が完成しました。

 

 第2次世界大戦を経て1949年。配給公団の廃止により自由出荷が始まり、ビールが復活しました。また、ビアホールや飲食店も再開され、再びビールの需要が高まりました。また、1951年には清涼飲料工場が完成し、「キリンレモン」の製造が始まりました。

 

 日本は高度経済成長期に入り、1960年代前半の5年間で、ビールの国民1人あたりの消費量は2倍以上となりました。冷蔵庫の普及により家飲みが一般化し、暖房器具の普及により年間の飲み物になりました。

 

 1970年代安定成長期に入ると、ビール消費量も横ばいになり、量よりも質が求められるようになります。多様化に対応するため、新商品を次々に出しました。現在ビールだけでこんなにたくさんの商品があり、主力商品の一番搾り生ビールは、「神戸づくり」「東京に乾杯」など47都道府県の地域限定商品も出ています。

 

 清涼飲料(キリンビバレッジ)や洋酒(メルシャン)に続き、食品事業へ進出、さらに医療事業や種苗事業などのライフサイエンス分野へも進出し、キリンホールディングスに成長しました。

 

 ショップにはビールや清涼飲料水だけでなく、おつまみや洋菓子もありました。

 

 家族がビール嫌いなので、コーヒーに合いそうなおつまみを探し、柿の種のチーズ味を買いました。スーパーにもありそうですが、意外にもキリンビール工場限定商品だそうです。

 

 建物の外に出ました。

 

 三田駅行きの送迎バスが止まっていました。出発まで小1時間あります。

 

 周辺を散歩することにしました。

 

 外から見た工場。これは若ビールを熟成させる貯蔵タンクです。

 

 キリンビール工場を出て20分歩き、かねふくめんたいパークに寄ることにしました。