随心院を出てから山科川に沿って歩きました。
道中にとても大きな木が立っていました。
深草少将が小町のもとに百夜通うことを誓い、小町はカヤの実を糸に綴ってその日を数えていましたが、最後の一夜を前に少将が寒さに凍え死んだのです。菩提を弔うために小町は小野の里にカヤの木を植えました。
カヤの木から15分ほど歩き、醍醐天皇山科陵に着きました。
遠巻きに醍醐天皇が眠っている場所を眺めました。
ここから10分ほどで醍醐寺に行けますが、この日は勧修寺(かじゅうじ)に引き返しました。
途中、坂上(さかのうえの)田村麻呂の墓に立ち寄りました。
坂上田村麻呂(758-811)は、801年に征夷大将軍に任命されて蝦夷を平定し、810年に京都で起こった薬子の乱を鎮圧し、右近衛大将に昇格した武将です。
嵯峨天皇の勅によって、この地で武将姿のまま棺に納められ、平安京に向かって立ったまま葬られました。
坂上田村麻呂の墓から20分ほど歩き、山科神社に着きました。
山科神社は、宇多天皇の勅命により897年に創建され、この地の豪族、宮道(みやじ)氏の祖神として、また、山科一ノ宮とも呼ばれてこの地の産土神として人々の崇敬を受けて栄えてきました。
繁栄していた頃は、社領を丹波、山城に持ち、社殿の規模も大きかったのですが、度々の兵火のため焼失し、境内は縮小されました。
この近くに岩屋寺があるはずですが、なかなか見当たりません。どこにあるのでしょう?