時雨殿 | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

嵐山羅漢から5分ほど歩いた所に時雨(しぐれ)殿があります。

 時雨殿は、小倉百人一首殿堂で、小倉山の麓にあった藤原定家の山荘「時雨亭」にちなみ命名されました。

 

十二単を着ました。

 布を12枚重ねて着るので十二単と呼ぶそうで、一番上の服を着ました。一番上の服だけでも何重も重なっているように見えますが、袖や襟の部分が重なっているだけで、身ごろは一枚です。一枚だけでもずっしり重く、とても暑いです。

 

 やはり夏と冬では布の厚さも違ったそうです。平安時代は今よりも寒く、今のように冷暖房設備が整っていなかったので、重い布を十二枚重ねて寒さをしのいでいたと思われます。

 また、季節によって袖の色を変え、色の組み合わせでお洒落を楽しんでいたそうです。例えば、春は椿・桜・梅などにちなんで赤やピンクの組み合わせ、夏は菖蒲のちなんで緑や紫の組み合わせなど。

 

小倉百人一首殿堂に入りました。

 百人一首は、藤原定家が息子為家の妻の父である宇都宮頼綱の要望により、頼綱の嵯峨野の別荘に貼る色紙に百首の歌を選んだことから始まるそうです。

 

藤原定家の父、皇太后大夫俊成の歌は83番。

 「世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる」

  この世の中よ、どこにも憂きことを避ける道は無いことだ。山の奥に逃れようと思って入って来たが、この山の奥にも憂きことがあるのか鹿が鳴いているよ。

 

藤原定家の歌は97番。

 「こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くやもしほの 身もこがしつつ」

  いくら待ってばかりでも来ない人を待っていると、松帆の浦の夕凪のころに焼く藻塩が火に焦がれるように、身も恋こがれてせつないことであるよ。なかなか情熱的な歌です。

 

 960年、村上天皇によって清涼殿で催された歌合は「天徳内裏歌合」といわれ、後世の歌合の模範になりました。

 歌合とは、歌人を左右に分け、その詠んだ和歌を左右一首ずつ組み合わせて判者が優劣を判定するもので、数番を番え、勝の多い方が全体としての勝者となるというゲームです。

 歌合は平安初期以来、宮廷人や貴族の間で流行した遊戯です。初期の頃は遊びでしたが、徐々に政治性を帯び、時には政争の道具になり、権力のある者は有力な歌人を雇ってまで歌合に勝とうとしました。

 

 

私が行った時の特別展は「百人一首と清少納言」でした。

 ここで「歴史秘話ヒストリア、清少納言と枕草紙」を見て1時間ほど過ごしました。

 

 清少納言は山口県に生まれ、親が歌人だったこともあり、幼い頃から漢詩や和歌の勉強をしました。親子3代で百人一首に選ばれています。

 

曽祖父は『古今和歌集』の代表的歌人である清原深養父

 36番 「夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月やどるらむ」

  夏の夜はまだ宵のままでもう明けてしまったことよ。

  それなのにいったい、雲のどこに月は宿をとっているのだろうか。

 

父は歌人の清原元輔

 42番 「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは」

  固く約束し合ったことでしたね。お互いに涙で濡れた袖を絞りながら。

  あの末の松山を波が越すことのないように、二人の仲はいつまでも変わりますまいと。

 

清少納言は和歌が上手な人と評判になり、都に招かれて28歳で宮仕えを始めました。

 宮仕えに馴染めず苦労したのですが、当時17歳だった中宮定子(本名藤原定子。一条天皇の皇后)と漢詩や和歌で意気投合し、側近になりました。文才が貴族の間で噂になり、数多くの男性から交際の申込がありました。百人一首に選ばれた歌はその頃のものです。

 

 62番  「夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」

  あなたは、たとい孟嘗君の故事にならって、夜のまだ明けないうちに、鶏の鳴き声をまねて、だまそうとしても、中国の函谷関とは違ってあなたと私の間にある関は通しはしません。

 

調子に乗りすぎていて、宮中の女性の反感を買いそうな歌です。

 実際、血筋もライバルの関係だった紫式部は、蜻蛉日記で「清少納言ほど教養をひけらかすうぬぼれの強い女性はいない。」と批判しています。

 

 995年、関白であった定子の父、藤原道隆が死去すると、政権は藤原道長の手に渡り、有力な後盾を失った定子の立場は急変しました。

 定子は身籠っていましたが出家しました。退屈な日々を紛らわすため、白い紙を清少納言に送り、それに宮中での定子との想い出を書いて送り返し、「枕草子」が誕生しました。

 1000年に定子が亡くなり、清少納言は宮仕えを辞めたそうです。

 

 鎌倉時代以降、「宮中でのどろどろした出来事は一切無く、良い想い出ばかりを記したのは、中宮定子を気遣ったからであり、清少納言は思いやりのある女性だ。」と見直され、枕草子は後世に残る作品になりました。

 

時雨殿を出た時は雨が激しく、この日の観光は切り上げました。