下鴨神社に着きました。
下鴨神社は、緩靖天皇(紀元前581年頃)の頃から神事が行われていたという伝承があり、欽明天皇の頃、544年から賀茂祭(葵祭)が行われ、平安時代に斎王の制度が定められました。
鎌倉~戦国時代は国民の信仰で神社が支えられ、江戸時代には、国と国民の幸福を祈願する神社として、幕府から領地が寄せられました。
明治時代に今日の神社制度が定まって以降、「賀茂御祖神社」と名づけられました。親神を祀っているという意味です。また、鴨川の上流にある上賀茂神社に対して、下流にあるので、「下鴨神社」と呼ばれています。
この御手洗(みたらし)の水は、手を清める水ですが、古来より糺(ただす)の森から湧き出る水で、人々の生活や田畑を潤したことで知られている名水です。
境内の外に糺の森があり、そこに川が流れています。
その川が境内の中にある御手洗(みたらし)池につながっています。
葵祭の前日に斎王代は、この池に手を浸して清める「禊の儀」を行います。池の上の建物は御手洗社で、災難厄除けの神様がいます。
御手洗池に湧き出す水の泡を形取ったのが、みたらし団子の始まりだとされています。
下鴨神社の台所は、供御所(くごしょ)と大炊殿(おおいどの)です。
供御所は、神饌(しんえん。お供え物)を調理する所、魚介鳥類を調理する所、神官などを集めて会合や儀式を行う所に分かれています。
向かい側の大炊殿(おおいどの)で神饌の煮炊きや調理をしていましたが、応仁の乱の戦火で焼失し、再建後一部の調理を供御所で行うことになったそうです。
この日は大炊殿の特別公開日でした。大炊殿の記事は次にします。
舞殿(まいどの)は、葵祭で勅使が祭文を奏上し、歌舞「東遊(あずまあそび)」を行う所です。
葵祭の日に私は出町柳で行列を見ましたが、その行列の行き先が下鴨神社です。
下鴨神社で祭事が行われている間に上賀茂神社へ移動したので、神事がここで行われたかは定かではありませんが、境内は跡形も無く片付けられていました。
中門から本宮(ほんぐう)がある領域に入りました。
幣殿は宮中からの幣帛(へいはく。神に奉献する供物の総称)を奉る社殿です。
幣殿の奥に本宮がありますが、特別な人しか入れないようでした。
東本宮に玉依媛命(たまよりひめのみこと)という縁結び、安産、子育ての神様が祀られていて、西本宮に賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)という玉依媛命の父で、厄除け・開運の神様が祀られています。
幣殿の前に言社(ことしゃ)があります。7つの名前を持つ大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀る社で、名前ごとに社殿を設け、干支の神として祀られています。
私の守護神は「八千矛神(やちほこのかみ)」だそうです。
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